大判例

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大阪高等裁判所 平成7年(ネ)1588号 判決

控訴人

林貴幸

控訴人

林曉

控訴人

林幸子

右三名訴訟代理人弁護士

伊東香保

小林廣夫

山崎満幾美

辻晶子

本田卓禾

小沢秀造

藤本哲也

被控訴人

日本赤十字社

右代表者社長

藤森昭一

右訴訟代理人弁護士

小堺堅吾

米田邦

主文

一  原判決中控訴人らに関する部分を取り消す。

被控訴人は、控訴人林貴幸に対して一七〇〇万円及びうち一五〇〇万円に対する昭和五一年七月二四日から、うち二〇〇万円に対する昭和六三年七月一五日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を、控訴人林曉及び同林幸子に対し、それぞれ一七〇万円及びうち一五〇万円に対する昭和五一年七月二四日から、うち二〇万に対する昭和六三年七月一五日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

控訴人らのその余の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、第一、二、三審を通じてこれを二分し、その一を控訴人らの負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

三  この判決は、第一項中金員支払部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

1  原判決中控訴人らに関する部分を取り消す。

被控訴人は、控訴人林貴幸(以下「控訴人貴幸」という。)に対し、二三〇〇万円及びうち二〇〇〇万円に対する昭和五一年七月二四日から、うち三〇〇万円に対する昭和六三年七月一五日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を、控訴人林曉(以下「控訴人曉」という。)及び同林幸子(以下「控訴人幸子」という。)に対し、それぞれ二三〇万円及びうち二〇〇万円に対する昭和五一年七月二四日から、うち三〇万円に対する昭和六三年七月一五日からそれぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。(上告に際し請求を減縮)

2  訴訟費用は、第一、二、三審を通じて被控訴人の負担とする。

3  第1項中金員支払請求部分につき、仮執行の宣言

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用(差戻しにおける上告費用を含む。)は控訴人らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  控訴人らの請求原因

1  当事者

控訴人貴幸は、控訴人曉と同幸子との間の長男である。

被控訴人は、姫路赤十字病院(以下「姫路日赤」という。)を設営し、小児科医等を雇用して医療行為にあたらせている。

2  控訴人貴幸の視力障害の発生

(一) 控訴人貴幸は、昭和四九年一二月一一日、姫路市内の聖マリア病院において、在胎三一週、出生体重一五〇八グラムの未熟児として出生し、同日、姫路日赤に転医し、新生児センターの保育器に収容されて、昭和五〇年一月二三日まで四〇日間以上も酸素の投与を受けつつ保育器内で看護保育を受けた。

(二) 控訴人貴幸は、昭和四九年一二月二七日に受けた姫路日赤眼科の中山和之医師(以下「中山医師」という。)による眼底検査では異常がないとされ、昭和五〇年二月二一日の退院までに眼底検査を受けることはなく、同年三月二八日に同病院眼科において念のために受けた中山医師による眼底検査において、眼底網膜の側頭部が蒼白であることが認められたものの、未熟児網膜症(以下「本症」という。)の罹患を否定され、同年四月九日に受けた中山医師による眼底検査では、網膜に皺襞形成が認められ、右眼乳頭が円形でなく眼底が蒼白であることが認められた。

控訴人貴幸は、中山医師から依頼を受けた姫路日赤小児科担当の松永剛典医師(以下「松永医師」という。)の紹介で、同月一六日、兵庫県立こども病院の眼科で受診したところ、同病院の山本節医師(以下「山本医師」という。)から両眼とも本症瘢痕期Ⅲ度と診断され、手術の適期を既に失っているといわれた。

(三) 控訴人貴幸の平成七年一〇月一六日現在の裸眼視力は、右眼0.04、左眼0.05であり、視力の矯正は不可能であり、視野も大幅に制限されている。

控訴人貴幸は、現在、大学で勉学に励んでいるがほとんど耳だけを頼りにして授業を受けており、将来、一般の会社に就職しても書類の作成、ビジネス機器の操作等を行うのに著しく困難であることが予想され、再度、盲学校に進学することを考えざるを得ない状況にある。

3  控訴人貴幸の診療経過

(一) 中山医師は、控訴人貴幸の生後一六日目に当たる昭和四九年一二月二七日に第一回の眼底検査を行ったが、乳頭部を中心とした付近を見るだけで、網膜血管の発育状況を網膜の周辺部にまで及ぼして見ることもなく、格別の変化がないとして以後の検診の必要性を認めず、昭和五〇年二月二一日に退院するまで控訴人貴幸の眼底検査をしなかった。

中山医師は、昭和五〇年三月二八日(生後一〇七日目)の定期検診の際には、眼底の全体特に眼底周辺の変化を見ることなく、眼底にくもりがあるが本症ほどひどくないと誤った診断をし(診療録には、右瞳孔正円でない、眼底乳頭ほぼ正常、眼底網膜の側頭部蒼白と記載)、二週間後に再度検診することとし、同年四月九日(生後一一九日目)には、本症ではないがくもりがどこからきているのか原因が分からないとして、兵庫県立こども病院を紹介するため松永医師への依頼書を作成した。

(二) 控訴人幸子は、昭和五〇年四月一一日、控訴人貴幸を受診させた後にようやく松永医師の紹介書を入手し、同月一六日に兵庫県立こども病院の眼科において控訴人貴幸を受診させたときには、控訴人貴幸の両眼は本症に罹患し瘢痕期Ⅲ度と診断され手術の時期を失していると判断された。

4  控訴人らと被控訴人間の診療契約の締結

控訴人貴幸、同曉及び同幸子は、控訴人貴幸が被控訴人の設営する姫路日赤に転医した昭和四九年一二月一一日、被控訴人との間で、控訴人貴幸の保育及び診断治療等を内容とする診療契約を締結した。

5  控訴人らと被控訴人間の診療契約における担当医師の注意義務の内容

本症は、保育器内の酸素投与による網膜血管の病変であることが、昭和三九年ころからつとに知られるようになっていた。したがって、控訴人貴幸の保育及び診断治療を担当した姫路日赤の医師は、本症の発症を防ぐため、次の義務を負担していた。

(一) 全身管理義務

保育を担当する医師は、本症の発症を防止するために、未熟児の徹底した全身管理、すなわち重要なものとして、未熟児の状態を綿密に把握し、その微妙な変化にも注意し、呼吸状態、循環状態、栄養及び体温の状態、眼の状態などにわたって適切な措置をとることを基本的に要請されている。特に、保育担当医師が未熟児の全身管理を徹底して、未熟児の全身状態を最善に保ち速やかな成長を図れば、酸素消費量を最低に押さえることができ、本症の発症を予防できることとなるし、仮に、本症が発症しても、自然治癒の可能性が高くなり、また、早期発見及び早期治療のための基礎となりうる。

(二) 酸素管理義務

本症は、酸素の過剰投与に帰因することが明らかであるから、担当医師は、本症の発症を防ぐために、未熟児の全身状態に応じた厳格な酸素管理が必要であり、未熟児に酸素を投与するのは、呼吸障害やチアノーゼが強く、保育環境を調整しても症状が回復しない場合に限るべきであり、しかも酸素投与を必要最小限度のものとすることが肝要で、それには環境酸素濃度を測定しつつ、少なくとも右濃度が四〇パーセントを超えないようにし、未熟児の状態を頻回に観察し、症状が好転したら直ちに酸素投与を中止し、できるだけ短期間の投与に止めるよう心掛けるべきである。

(三) 眼底検査義務

未熟児の眼底は、昭和四九年一二月までには、徐々に或いは急激に変化することが知られており、定期的に眼底検査をする必要性は、控訴人貴幸が出生した昭和四九年一二月当時には議論の余地がなかった。したがって、担当医師は、本症の発症の危険を予知し、また、早期に発見して適切な治療を施すため、眼科医の協力を仰ぎ、未熟児の全身状態に応じほぼ生後三週間目に最初の眼底検査を、そしてその後定期的に眼底検査を行わなければならない。なお、眼科医であれば、眼底検査を行うことはさほど難しくなく、また、当時医学雑誌にはカラー写真で本症に罹患した網膜血管の状態が発表されていたのであるから(甲一八九、乙三八)、網膜血管の変化の有無を見分けることは容易になしえたものである。

眼底検査は、その結果を全身管理及び酸素療法の参考資料とするためにも重要である。

(四) 本症の診断治療義務

(1) 光凝固法の確立

本症の治療法として、副腎皮質ホルモン等による薬物療法、光凝固法及び冷凍凝固法がある。

天理よろず相談所病院眼科の永田誠医師(以下「永田医師」という。)は、昭和四二年に世界で最初に本症活動期病変に対する光凝固法による治療に成功し、昭和四五年一一月ころから昭和四九年二月ころまでには、光凝固法を行う永田医師、九州大学の大島健司医師(以下「大島医師」という。)、名古屋市立大学の馬嶋昭生医師(以下「馬嶋医師」という。)ら代表的研究者により、以下のとおり光凝固法の診断基準が示されていた。

厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班は、昭和五〇年三月に「未熟児網膜症の診断及び治療基準に関する研究」(以下この研究班を「厚生省研究班」といい、この研究報告を「厚生省研究班報告」という。)を発表し、本症の活動期及び瘢痕期病変の系統的な分類を行いそれに従って具体的な診断治療基準を明確に提示するに至った。右基準は、永田医師らの提示した先の治療基準を追認したといえることは明らかであり、昭和四九年当時の診断基準が客観化されていないとはいえない。

ア Ⅰ型に対する診断治療基準

1期とは、周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それにより周辺部は無血管領域で軽度の血管の迂曲怒張を認める時もあるが通常は変化がない時期をいう。

2期とは、無血管帯と網膜血管末梢部に灰白色の境界線が出現し、後極側の血管の迂曲怒張も認められる時期をいう。

3期とは、堤防状に隆起した境界線から新生血管が増殖し、桃色ないし灰色の滲出も現れ、血管の迂曲怒張、硝子体出血も認められる時期をいう。

Ⅰ型ないしⅠ型に近い混合型に対する光凝固法の実施時期、部位の考え方には、次の三つがある。

① 硝子体中の血管新生が、検眼鏡的に明確に認められる直前(オーエンスⅡ期晩期、厚生省研究班報告3期初期ないし中期)に境界線を中心に最小限度の光凝固を加えて早く寛解させた方がよいとするもの。

② 硝子体中の血管新生が、検眼鏡的に著明となり、滲出物も増強してきたとき(オーエンスⅢ期初期、厚生省研究班報告3期中期)に境界線の無血管側と無血管帯に散発凝固を加えるとするもの。

③ ②よりもやや遅く、増殖性変化がより著明になった段階で(オーエンスⅢ期中期、厚生省研究班報告3期中期ないし晩期)で境界線の両側と無血管帯に散発凝固を加えるとするもの。

これらを最大公約数的に示すと、活動期3期に入り進行がみられる場合に、境界線を中心に凝固を加えるということになり、厚生省研究班報告と同一になる。そして、右①ないし③はいずれも合理性を有しており、いずれを選択するかは医師の裁量に委ねられている。なお、3期を超えて進行する場合も光凝固すべきでないとの考え方は、医学界で主張されたことはない。

イ 混合型ないしⅡ型に対する診断治療の準則

昭和四六年から昭和四七年の間に永田医師と大島医師によって示された混合型ないしⅡ型に対する診断治療の基準は、「無血管領域が広く全周に及ぶ症例で、血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する傾向徴候がみえたら直ちに光凝固法による治療を行うべきである。凝固の方法は境界線に加え無血管帯への散発凝固を行う。」との厚生省研究班報告と全く同様である。

ウ 以上のとおり、Ⅰ型ないしこれに近い混合型については、昭和四七年ころまでに発表された文献の上で光凝固法を実施していた医師の間で、裁量の範囲を超えて基本的差異があったとは到底考えられない。また、Ⅱ型ないしこれに近い混合型についても、昭和四九年三月ころまでの術者の治療内容に差異が存していたとは考えられず、光凝固法は、厚生省研究班報告を待つまでもなく本症治療の専門家間において準拠すべき共通の土台が確立していたとみることができる。

(2) 光凝固法の有効性

ア 永田医師が昭和四二年(一九六七年)に世界で最初に本症活動期病変に対する治療として光凝固法を用いて成功して以来、多くの眼科医が本症治療に取り組んできた。その結果、本症活動期の治療診断技術の研究開発が急速に進み、わが国の本症治療の技術的理論的水準は、豊富な治験例と正確な臨床データ、優秀な技術を身につけた医師数などの点から欧米の追随を許さないほどの高い水準に達している。

また、最近の欧米の眼科学会においても、昭和五五年(一九八〇年)以降、イスラエルのⅠ・ベン・シーラー博士、カナダのN・W・ヒンドル博士、アメリカのハーベイ・トッピロウ博士らは、本症の治療法として冷凍凝固法等の有効性が高いことを報告している。アメリカの眼科学会では、当初、後に述べるように消極的であったが、やがて、昭和五九年(一九八四年)に未熟児網膜症の国際分類が作成され、昭和六一年(一九八六年)にはⅠ型について冷凍凝固法に対する比較対照実験(コントロールスタディ)が行われ、その結果、Ⅰ型については、放置しておけば三分の一以上が失明するが、病変の部位がつながっていない場合には全部合わせて二四〇度になったとき、連続した病変が生じている場合には一五〇度までに達したときに治療すれば半分は助かるということが証明された。そして、冷凍凝固法は、晩発性の合併症が起きやすいことから敬遠され、今や、世界の眼科学会は、本症の有効な治療法として光凝固法を採用している。永田医師も、平成八年(一九九六年)にシカゴで開催された未熟児網膜症の国際会議の機会に、アメリカ眼科学会からその功績を賞されているが、これは国際的にも光凝固法の理論の正しさ、臨床治療の有効性を認めたものである。

イ 慶応大学医学部の植村恭夫教授(以下「植村医師」という。)は、本症に対する光凝固法が緊急避難的治療にとどまるから激症型にのみ治療すべきであるとの意見を有している。

しかし、右意見は、光凝固法による十分な治療経験を有することなく述べられたものであり、資料としての科学性にも問題がある。

ウ 外国、特にアメリカにおける本症の眼科的治療法は、活動期における予防的治療技術の開発という点でわが国と比べて極めて立ち遅れており、到底わが国の進んだ技術を批判できる水準にはない。

すなわち、本症の発症原因は、昭和二六年(一九五一年)に、酸素の過剰投与であることが発見され、アメリカでは酸素管理を厳密に行うようになり、本症の患者も激減し、本症による失明数もその数を減じた。その結果、アメリカの眼科医界では、本症に対する興味関心が薄れ、本症の発症、進行等の診断及び治療に関する研究がほとんど行われないまま推移した。他方、新生児保育の水準が向上し、従来は助からなかった極小未熟児達をも育てることができるようになり、本症に罹患しやすいリスクを有する未熟児数が増加し、極小未熟児に対する高酸素療法とあいまって、酸素無制限時代の復活とも思えるような本症発生数の増加の事態を迎えたが、その報告がアメリカ内の個々の未熟児センターからなされる非組織的なものであったため、本症の再度の激増ともいえる事態を看過し、診断治療の研究も立ち遅れてしまった。また、ジェームズ・D・キンガム、ロバート・E・カリーナ、パッツらは、光凝固法等に否定的な考えを持っているが、光凝固法による治療時期を誤ったり、わが国の光凝固法に関する不十分な理解のもとに、右のような判断を下したものである。

アメリカにおいて本症に対する外科的治療法として強膜バックリング(アメリカで行われている術式は、強膜外層を切開し、その中にシリコンの管を埋め込んで縫合し、これを強く結紮し、眼球を絞縛するもので、剥離網膜と脈絡膜を接近させる術式として開発されたものである。)がある。これは未熟児の眼球に対し、光凝固法等とは比べようもない重大な侵襲を加えているものであり、永田医師により治療の時期が遅すぎるから右のような治療法を行っているものであるとの批判がなされている。このように、強膜バックリングは、活動期の本症を悪化させるだけさせておいて、全剥離に至らなかったものについて剥離した部分の眼球を内側にへこませて網膜と脈絡膜を接近させる治療にすぎないものであり、活動期病変に対する病勢進行停止を目的とする光凝固法等とは全く趣旨が異なり、侵襲度も比較にならないほど強烈なもので、全剥離には全く効果がないとの欠点を有するものである。

しかし、その後、わが国の本症の知見と技術が、先に述べたように欧米等に一層普及するに及んで、最近ではわが国と同一の基準で本症治療を行おうとする潮流が有力になりつつある。

したがって、欧米における光凝固法及び冷凍凝固法が一部の研究者により実験的研究の段階にあるとしても、その実態は右に述べたとおりであり、光凝固法の有効性は、わが国における進んだ水準を基準に判断されるべきものである。

(3) 光凝固法に関して姫路日赤に要求される医療水準

光凝固法は、先に述べたように、厚生省研究班報告を待つまでもなく、昭和四九年一二月当時の臨床医学の実践における医療水準として、既に確立していたものである。仮にそうでないとしても、光凝固法は、以下の事情からすると、少なくとも、昭和四九年一二月当時、姫路日赤と類似の特性を備えた兵庫県及びその周辺の各種医療機関に相当程度普及しており、本症の治療として期待されていたといえるから、特段の事情のない本件においては、光凝固法の存在を前提にして検査、診断、治療等に当たることが、診療契約に基づき被控訴人の設営する姫路日赤に要求される医療水準となっていたといえる。

ア 兵庫県立こども病院の存在と昭和四九年一二月当時における同県下の実施状況等

(ア) 天理よろず相談所病院以外の医療機関も、昭和四四年ころから光凝固法を有効な治療として実施していたのであり、その症例を報告している病院としては、関西医科大学、名鉄病院、広島県立病院、九州大学医学部、鳥取大学医学部、兵庫県立こども病院、名古屋市立大学医学部、国立大村病院、松戸市立病院、京都府立病院、聖マリア病院、国立習志野病院、国立福岡中央病院、大阪北逓信病院があった。

(イ) 兵庫県立こども病院は、姫路日赤を含む兵庫県下の患者の児童を転医させ受け入れる目的で昭和四五年五月五日に開設された病院であり、開設当初から未熟児の眼底検査を施行し、昭和四七年四月に光凝固装置を購入するまでは神戸大学医学部附属病院眼科の光凝固装置を使用し、右装置購入以後は兵庫県立こども病院において自ら光凝固法を多数例実施して成果をあげてきた。

さらに、兵庫県下における病院においても、眼科医による眼底検査の実施、光凝固装置の購入或いは右装置がない場合には転医させることが一般に行われていた。その骨子は以下のとおりである。

① 兵庫県立西宮病院 昭和四四年一二月から未熟児の眼底検査の開始

昭和四六年一〇月から本症に罹患した未熟児の転医

昭和五〇年八月に光凝固装置の購入

② 西宮布立西宮中央病院 昭和四四年二月に光凝固装置の購入

昭和四九年八月未熟児の眼底検査の開始

③ 伊丹市民病院 昭和四九年八月に未熟児の眼底検査の開始

④ 川西市民病院 小児科医が本症の存在を説明して、退院時に眼科医の紹介

昭和四九年八月に眼科医の応援を求めて眼底検査の開始

⑤ 芦屋市民病院 昭和四九年四月ころから眼科医の応援を求めて眼底検査の開始

⑥ 県立尼崎病院 昭和四五年八月から眼底検査の実施と光凝固法の施行

⑦ 兵庫県立淡路病院 昭和四八年四月には遅くとも眼底検査の実施

⑧ 神戸海星病院 昭和四六年四月ころには眼底検査の実施と光凝固法施行のための転医の体制

⑨ 明石市民病院 昭和四八年から定期的眼底検査の実施と光凝固法施行のための転医体制

イ 姫路日赤の医療機関としての性格

姫路日赤は、地域の未熟児センターとして、一般開業産婦人科医院において出生した未熟児を受け入れる医療機関であり、未熟児については、自ら定期的眼底検査を実施し、適期に光凝固法施行のために兵庫県立こども病院へ転医させる義務を負っていた。

ウ 姫路日赤における光凝固法の知見の存在及びその実施状況

姫路日赤は、小児科の松永医師らが中心となって同病院眼科と連携し、未熟児に対する眼底検査を昭和四八年一〇月から実施し、その回数は、控訴人貴幸が出生した昭和四九年一二月までに、一か月当たり少ない月でも七、八例にのぼり、そのうちの何例かを兵庫県立こども病院へ転医させて本症罹患の有無、治療の必要性の判断を仰いでいた。

このように、姫路日赤は、遅くとも昭和四八年一〇月以前から本症の治療法として光凝固法があり、右症状を発見するためには眼底検査が必要であることを認識していた。

(4) まとめ

したがって、未熟児の保育に当たる姫路日赤の医師は、これらの基準に従い、本症の早期の診断治療に努める義務がある。

(五) 説明義務

医師は、医師法等により、患者又は保護者に対し療養上必要な事項について適切な注意及び指導をすることを義務づけられているほか、患者の自己決定権の前提となる情報を提供する義務を負っている。したがって、担当医師は、未熟児に対し酸素を投与するについて、保護者に対し本症発症の危険性、発症の有無及び進行の程度等を説明する義務があり、更に退院の際には、眼底検査の必要性及び本症の治療法についても説明、教示すべきである。

(六) 転医させる義務

未熟児保育を担当する医師は、自らその専門家としての措置がとれない場合には、直ちに他の専門医に転医させ、適切な療養方法をとり、未熟児の生命と身体の安全を図るよう指導する義務がある。

6  被控訴人の診療契約の債務不履行責任

被控訴人は、前記診療契約により、控訴人貴幸に対し、前記診療行為を行う注意義務を負担していたところ、被控訴人の履行補助者として控訴人貴幸に対する診療行為に携わった医師には、次に述べるとおり右注意義務に違反した過失があり、右注意義務違反は診療契約の債務不履行に該当する。したがって、被控訴人は、右債務不履行により控訴人らの被った損害を賠償する責任がある。

(一) 全身管理

控訴人貴幸は、出生時からアプガールスコアー(〇点から一〇点までの段階があり、八点以上は全身状態が良好とされる。)が八点であったが(戊F四)、控訴人貴幸の担当医であった松永医師は、体温の管理等に関し、湯たんぽ、ガーゼなどを使用して保温の努力をしておらず、全身管理につき万全であったとはいえない。

(二) 酸素管理

控訴人貴幸の全身状態は、先に述べたとおり、極めて良好で、チアノーゼも生後一〇日間、口囲四肢末端チアノーゼが現れているのみで、いわゆる中心性チアノーゼは発生しておらず、体重の増加についてもほぼ平均的な増加曲線を示しており、前記基準からみて酸素療法の必要はほとんどなかったのに、担当医師は、漫然と酸素を生後四〇日以上も投与しており、そのため控訴人貴幸を本症に罹患させたものである。

(三) 眼底検査、光凝固法の実施或いは転医

(1) 先に述べたとおり、光凝固法の存在を前提にして検査、診断、治療等に当たることが診療契約に基づき被控訴人の設営する姫路日赤に要求される医療水準になっていたものであり、姫路日赤においては、本症の発見、治療を意識して小児科と眼科との連携体制をとり、本症の疑いがある場合には兵庫県立こども病院へ転医させ、そこでの光凝固法の施行を受けさせる体制を有していた。

(2) 松永医師は、控訴人貴幸を姫路日赤で受け入れて保育を担当するようになった昭和四九年一二月ころには既に本症の治療法として光凝固法があり、また、本症罹患の発見のためには眼底検査が必要なことも認識していたのであるから、姫路日赤の体制としては、当然、定期的かつ正確な眼底検査をするような措置をとるべきであり、姫路日赤眼科の中山医師に若干自信がないようであれば、頻繁に検査をさせ、早期に兵庫県立こども病院等に転医させる措置をとるべきであったが、そのような措置をとらなかった。そのため、控訴人貴幸は、兵庫県立こども病院に転医したときには既に光凝固法による治療時期を失していた。

(3) 眼科の担当医師に要求される眼科管理の内容は、①生後三週間目ころに第一回目の眼底検査を行うこと、②網膜の血管の発育状況を眼底周辺部まで広げて十分に見ることが重要であり、血管の発育状況を確認できない場合には、引き続き週一回の眼底検査を行うこと、③本症発症の疑いがあれば速やかに転医させることである。右①②の眼底検査については、昭和四九年一二月ころまでには既に多数の文献により明らかにされている。

中山医師は、約一〇〇例に及ぶ未熟児の眼底検査の経験を有していたとしても、そのほとんどの所見が正常眼底で一部耳側に蒼白などとしているものにすぎず、網膜血管の伸び具合や周辺の無血管帯の大きさに注意を払ったとは考えられないもので、未熟児の眼底検査に習熟していたとは到底いえないものであった。

中山医師は、昭和四九年一二月二七日の第一回眼底検査の際には、眼底の周辺部まで見ることなく、網膜血管が網膜周辺まで発育していることを確認することもなく、その後の網膜血管の増殖、変化の有無を判断するために必要な定期的な眼底検査を怠ったほか、昭和五〇年三月二八日にも眼底の周辺部まで見なかったため、周辺部の変化の病変に気付かず的確な判断をするに至らなかった。

中山医師が、控訴人貴幸の第一回眼底検査を行ったとき、控訴人貴幸の全身が未熟である以上、その眼底のみが既に成熟眼底になっていたといえるものではない。

したがって、中山医師には眼底検査義務、本症の診断治療義務、転医義務に違反した過失がある。そのため、控訴人貴幸は、兵庫県立こども病院への転医、光凝固法の施行の機会を奪われたものである。

(四) 説明

光凝固法は、控訴人貴幸出生当時においては、本症の治療法として、唯一、最善の治療法であったのであるから、仮に光凝固法における診断、治療基準が確立していなかったとしても、被控訴人、したがってその履行補助者である松永医師及び中山医師は、両親である控訴人曉及び同幸子に、本症発症の危険性、専門病院での光凝固法による治療を受けることができる旨の説明をすべきであったにも拘わらず右説明をしなかった。

7  控訴人らの損害

(一) 控訴人貴幸の慰謝料

控訴人貴幸は、光凝固法による治療を適期に受ける機会を奪われ、本症に罹患したことにより、一生涯高度の視力障害者として生活することを余儀なくされたものであり、これによる精神的苦痛に対する慰謝料としては五〇〇〇万円を下らない。

(二) 控訴人曉及び同幸子の慰謝料

控訴人曉及び同幸子は、愛児である控訴人貴幸が光凝固法による治療を適期に受ける機会を奪われたほか、同人が失明したことにより、その将来を思い筆舌に尽くし難い精神的苦痛を受けたものであり、これに対する慰謝料としては少なくとも各五〇〇万円が相当である。

(三) 弁護士費用

控訴人らは、その訴訟代理人らに対し、本訴に関する弁護士費用として、各自右慰謝料額の一割五分に相当する金員を支払うことを約した。

8  結論

よって、控訴人らは、被控訴人に対し、診療契約の債務不履行に基づく損害賠償として、控訴人貴幸において五七五〇万円のうちの二三〇〇万円及びうち慰謝料二〇〇〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五一年七月二四日から、うち弁護士費用三〇〇万円に対する原判決言渡しの日の翌日である昭和六三年七月一五日から各完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、控訴人曉及び同幸子において五七五万円のうちの各二三〇万円及びうち慰謝料二〇〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五一年七月二四日から、うち弁護士費用三〇万円に対する原判決言渡しの日の翌日である昭和六三年七月一五日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。

二  請求原因に対する被控訴人の認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実のうち、(一)及び(二)の事実は認め、(三)の事実は知らない。

3  同3の事実のうち、松永医師が控訴人貴幸の保育を担当していたこと、中山医師が昭和四九年一二月二七日に控訴人貴幸の眼底検査をしたこと、控訴人貴幸が昭和五〇年二月二一日に退院したこと、中山医師が同年三月二八日及び同年四月九日に控訴人貴幸を診察し、兵庫県立こども病院を紹介するよう連絡したこと、控訴人貴幸が兵庫県立こども病院において瘢痕期Ⅲ度と診断されたことを認め、その余の主張は争う。

4  同4の事実は認める。

5  同5の主張は争う。

6  同6について

冒頭の主張は争う。

(一)の主張は争う。

(二)の事実のうち、控訴人貴幸が四〇日以上酸素投与を受けたことは認め、その余の主張は争う。

(三)及び(四)の主張は争う。

7  同7の(一)(二)の主張は争い、(三)の事実は知らない。

8  同8の主張は争う。

三  被控訴人の主張

1  控訴人貴幸の視力障害の発生と診療経過について

中山医師は、昭和四九年一二月二七日に控訴人貴幸の眼底検査をし、異常がないと診断し、控訴人貴幸は、その後眼底検査を受けることなく、昭和五〇年二月二一日に姫路日赤を退院した。

中山医師は、控訴人貴幸の小児科受診の際の同年三月二八日に、眼底を検査し、右眼の眼底網膜の側頭部が蒼白であったほかは異常を認めなかったが、同年四月九日に、控訴人貴幸の網膜に皺襞形成を認め、右眼乳頭が円形でなく眼底が蒼白であるとして松永医師に対して兵庫県立こども病院への紹介依頼をした。

松永医師は、同日不在であり、同月一一日に兵庫県立こども病院と連絡をとり同月一六日に診察を受けられる旨の予約を取った。

控訴人貴幸は、同年四月一六日に兵庫県立こども病院において受診し、山本医師から両眼とも牽引乳頭が強く黄斑部を覆っていて視力障害は強く右眼は後部癒着があるとして、両眼瘢痕期Ⅲ度と診断された。

2  控訴人らと被控訴人間の診療契約における担当医師の注意義務の内容と被控訴人の診療契約の債務不履行責任について

(一) 本症の発症原因の不明と発症防止の不可能性

(1) 本症は、多因子性疾患で、酸素が唯一の病因ではなく、未熟児出生に伴う危険因子が相互に関連して発生するものである。しかも、ほとんど全ての因子は、現在の未熟児医療上避けられず、出生した未熟児を生存させるために不可欠な治療行為と関連している。本症は、未熟性を基礎としてその上に複雑な因子が関与して発生するものであるが、どのような因子の組合せが本症の発生、進行の促進効果を持つかは現在のところ全く不明であり、本症発症の予防は不可能とされている。

(2) 本症発症原因としての酸素投与等

ア 本症発症は、従来、過剰な酸素の投与によるものといわれてきた。しかし、近年になり、アメリカにおける酸素制限による本症発症の減少は、本症罹患危険性の高かった新生児が低酸素症により死亡したためであって、酸素が本症の因子であったことを証明するものではないといわれるようになり、低酸素症が本症の原因であるとする説すら提唱されてきており、現在では、過剰酸素投与或いは高濃度酸素を本症の原因とすることに疑問が提起されている。

また、未熟児の網膜の動脈血酸素濃度は環境酸素濃度に単純に比例しているわけではないことから、本症の発生は動脈血酸素分圧(PaO2)が関係するといわれるようになってきた。そこで、アメリカでは昭和四六年に、わが国では昭和五二年九月に未熟児に対する酸素療法の指針が示され、動脈血酸素分圧六〇mmHgないし八〇mmHgに保つことが望ましいとされた。

しかし、未熟児の保育の上で、脳障害と本症の双方を防ぐ動脈血酸素分圧の安全域は、現在なお明らかでないし、動脈血酸素分圧が本症の唯一の原因ではあり得ないとされている。また、仮に動脈血酸素分圧が本症の発症原因としても、安全値がわからず、酸素投与量を動脈血酸素分圧値に基づき制限できない以上、現時点でさえ動脈血酸素分圧の測定により本症発生を防止することは不可能である。

イ 本症は、従来、酸素を長期間投与するほど発症率が高くなると主張されてきた。しかし、本症発症の危険は、現時点においてもどのくらいの期間で生ずるのかという持続時間の危険値は見出されていない。したがって、酸素投与期間をどのくらいにすべきかの指標も明らかにされているとはいえない。

ウ 以上のとおり、未熟児に対しいかなる基準で酸素を投与すべきかについて四〇年近く研究されてきたものの、現時点においても臨床レベルでの酸素投与の問題は未解決のまま残されており、未熟児に対する酸素投与は、当該児の一般状態とかチアノーゼ或いは未熟性の問題を総合判断して、個々の医師の裁量で決められているのが実態であり、完全確実な療法はまだ示されていない。

(3) その他の本症発症原因

二酸化炭素、無呼吸、輸血、動脈管開存症、敗血症、脳室内出血、ビタミンE等種々が、本症の原因として従来から検討されてきたが、いずれも単一病因とは認められておらず、相互に複雑に関連して本症の原因となっていると考えられる。しかも、どのような因子の組合せが本症の発生、進行の促進効果をもつのかは全く解明されていない。

(4) まとめ

以上のとおり、本症の発症原因は解明されていないから、酸素の投与を含む全身管理上の措置と本症罹患との因果関係を肯定することはできず、医師に対し本症発症の責任を問うことはできない。

さらに、現在まで、過渡的に種々の発症原因が唱えられたが、現在の知見からするといずれも正しいものではなく、誤った原因との因果関係を求めて医師に責任を負わせることはできない。

また、未熟児の診療に当たる医師に対して、いかなる措置をとれば生命も脳も助け、本症の発症をも防ぐことができるのか全く明らかにされていない。本症は、網膜の未熟性を基礎として発症する疾患であり現在でも予防することができない。したがって、医師は結果回避義務を負っていない。

(二) 本症の診断治療(光凝固法)

(1) 光凝固法の実験的医療性

新規治療法が、一旦有効、安全とされ専門医だけでなく開業医にまで普及しながら、効果、安全の両面にわたる実験方法の欠陥のために、のちに有効性、安全性を否定された事例は少なくない。

わが国の光凝固法は、動物実験を経ず、比較対照実験(コントロールスタディ)も行われずにいきなり人体臨床実験に入ったものであり、このような実験的医療を法的義務付けとして一般化することは危険である。また、光凝固法が本症の治療法として、後に有効であると確認されたとしてもそれは結果論にすぎないし、同じ光凝固法を施行しても、実施時期、凝固の部位、方法が異なれば別個の治療法といえるものであり、当初から有効であるとして治療を義務付けるものとはなりえない。

(2) 光凝固法の有効性・安全性の未確立

ア 光凝固法は、昭和四八年ないし昭和五〇年当時までに、一部先進的研究者らにより理論的に完成された治療法として発表され、奏功的追試事例が相次いで発表され、文献上もその有効性が確立されたかのように紹介されていたが、実態は比較対照実験(コントロールスタディ)などを欠き、客観的、学問的には研究途上にあった。

また、本症研究者らは、本症の病態、病像の正確な把握をしていたものでもなく、まして客観化された診断、治療基準を確立していたものでもなかった。本症の治療基準が明確にされるためには、その前提として本症の分類が必要不可欠であるが、控訴人貴幸が姫路日赤で保育治療を受けていた昭和四九年一二月から昭和五〇年二月までの時期においても、統一的、客観的な分類は存在せず、厚生省研究班報告も作成公表されていなかった。

光凝固法は、光熱によって網膜を破壊し網膜に永久瘢痕(この部分は視力を失う。)を形成する危険な治療法で、しかも何年か後に網膜剥離の合併症発生の危険性を否定できないから、適応のないものには凝固すべきでなく、また凝固が必要な症例の場合でも往々にして急激に悪化するため凝固実施時期が限局されており、さらにどの部位をどのように凝固するかによって有効、無効が左右されるという極めて特殊な術式である。そして、光凝固の実施時期を誤れば、加療の不必要な網膜の部位に永久瘢痕を形成して視機能に障害を与えるほか、凝固眼の晩発障害という合併症を発生させる危険性があり、凝固の部位、方法が不適切、不十分であれば、本症の病勢を阻止できないこととなる。

したがって、光凝固法が確立された有効な治療基準となるためには、光凝固の実施時期、凝固の部位、方法につき、治療基準として確立されていることが必要不可欠な条件となる。

イ 右治療基準は、以下に述べるとおり、昭和四九年一二月当時には確立していなかったのであるから、光凝固法は、当時、有効な治療法ではなかったといえる。

まず、光凝固の実施時期については、昭和四九年当時は、厚生省研究班報告のような分類はなく、昭和五〇年以前においては、Ⅰ型の場合の実施時期につき、①2期、②2期の終わりから3期、③2期から3期に移行した時期、④3期、⑤3期の初期、⑥新生血管の硝子体進入以前であるとする報告がなされ、研究者によりまちまちで一定していない状況であった。さらに、昭和五〇年に公表された厚生省研究班報告においても、3期をさらに初期、中期、後期とするいわゆる三段階分類の合意をみるに至らなかったため、Ⅰ型の場合につき3期において進行の兆候が見られるときに治療が問題となるとし、Ⅱ型の場合につき無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する兆候が見えた場合に直ちに治療を行うべきものとし、いずれにおいてもあいまいな表現にとどまった。今日では、3期の中期に入ってなお進行、増悪の兆候が見られる場合に凝固することにおおむね統一されているが、現在でもなお、わが国の一流の施設において実施時期についての研究が続けられている状況にある。

次に、光凝固の部位、方法については、永田医師は、当初、新生血管を凝固するとしていたが、その後、新生血管のほかに境界線と無血管帯を散発的に凝固することを試み(昭和四七年に発表)、昭和五一年には新生血管そのものの凝固は必要ではないとし、さらに昭和五六年には新生血管を凝固するとしていた考え方を変更し、新生血管の凝固或いは血管性と無血管性の境界線の後極の網膜部位の凝固は不要でありむしろ有害とするに至った。大阪北野病院眼科の菅謙治医師は、昭和五〇年発表の論文において、報告者により凝固の部位を、新生血管帯とする、境界線を中心としその中心側の新生血管帯とその周辺側の無血管帯とする、なるべく周辺の無血管帯とするなどと異なっているとし、さらに凝固の範囲も、境界線の存在するすべての部位に対してする、散発的にする、ところどころ斑点状にするなどと異なっているとした。また、昭和五〇年発表の厚生省研究班報告においては、Ⅰ型につき無血管帯に散発的に凝固を加えることもあるとか、Ⅱ型につき無血管帯にも広く散発凝固を加えるとして極めて観念的、抽象的な表現にとどまっている。その後の研究者らは、凝固の範囲、方法について、境界線と無血管帯を中心に広範囲に十分な凝固を加えるとしているが、昭和四九年一二月当時においては、凝固の範囲につき右のようには考えられていなかった。

ウ 光凝固を受けた未熟児眼底の凝固瘢痕が後に別の障害を引き起こすかどうかの長期予後の問題は、光凝固法が施行された当初においては解明されていなかった。

厚生省研究班報告も、Ⅰ型でも光凝固法による治療例の視力予後や自然治癒後の網膜剥離のような晩期合併症の長期観察結果が判明するまでは適応に問題が残っていることを指摘し、光凝固後の長期予後の追跡結果によっては、光凝固法の適応そのものが見直される可能性も残っていると明記している。

永田医師は、昭和六一年に、最長一九年を経過した場合においても、光凝固法による治療が悪影響を与えるものではないことを確認するに至ったとしている。これは、光凝固法による治療の安全性が確認されるまで一九年もの期間を要することを示すものであり、控訴人貴幸の出生した昭和四九年一二月当時には、右安全性の確認をするまでには至らなかったことを明らかにしたといえる。

エ アメリカにおける冷凍凝固法の比較対照実験(コントロールスタディ)の結果は、本症による不良結果(後極部網膜剥離、黄斑部を含む網膜皺襞、水晶体後部線維増殖症を指す。)の発生率を約五〇パーセントに減少させるというものであるが、この結果をもって有用性が証明されたとはいえても、直ちに高度の蓋然性をもって失明ないし高度視力障害の発生を防止できるというものではない。フリーマンとタスマンは、本症に対し必ず冷凍凝固法を行うべきであるとの考えが確立されているものではないと述べている。本症に対する冷凍凝固対照試験共同グループは、平成二年一〇月の報告において、新国際分類のゾーンⅠの症例には冷凍凝固をしても予後が顕著に悪いため両眼凝固を勧めているが、ゾーンⅠ以外の場合には冷凍凝固による副作用や機能上の障害の問題がはっきりするまで片眼凝固で経過を見ることを勧めるにとどまっている。

(3) 光凝固法に関して姫路日赤に要求される医療水準

ア 兵庫県及びその周辺の医療機関における本件当時の眼底管理の実情

(ア) 大阪の新生児診療相互援助システムの草分けとして代表的な基幹病院である愛染橋病院のベビーセンターの眼科においては、昭和四七年から本症のための眼底検査を始め、未熟児が保育器から出た段階で大阪府立病院眼科に運んで診察を受けさせ、指示された未熟児のみ再診を受けさせるという方法で眼底検査を続けていたもので、しかも昭和五〇年までは未熟児が保育器から出るまでに眼底検査をすることができない実情であった。さらに、検査体制としても、同眼科の非常勤医による週一回の定期的眼底検査を始めることができたのは、昭和五一年からであり、それまでは常勤眼科医のいた時期もあったが、欠員を補充することも極めて困難で、眼底検査を頼んでも普通の眼科医には難しく断られるという状況であった。

同じく大阪の新生児・未熟児医療施設として先進的であった淀川基督教病院においても、昭和五〇年三月当時、未熟児が病院から退院するときに眼底に異常を認めなかった場合には、それ以後眼底の検査をする必要はないとしていた。

(イ) 兵庫県下において、未熟児を扱う医療機関のうちで眼底検査を行っていたのは、昭和四九年当時には約半数であった。

神戸市立中央市民病院は、昭和四二年九月ころから週一回の眼底検査を目標にした定期的眼科管理に着手していたが、病院の医療体制に組み込まれていたものではなく、眼科医の個人的学問的関心からの検査であった。同眼科医は、昭和四三年当時、永田医師の光凝固法の臨床実験第一報を知っていたが、効果や安全性に問題の残る実験にすぎないとして、実施すべきものとは考えていなかった。

控訴人らが指摘している兵庫県下の病院における眼科管理の体制、眼科医による眼底検査の内容等については不明な点もあり、判明している内容でも、検診時期を退院時のみ行っていたり、二回目以後の眼底検査が眼科医の指定によったり、特殊な事例として検査を受けるようになった事例に関するものも含まれており、必ずしも参考にならない。

(ウ) 兵庫県立こども病院は、全国で三番目に発足した小児専門病院であり、同病院の眼科の山本医師及び同田淵昭雄医師(以下「田淵医師」という。)は、本格的に光凝固法に取り組んだ医師たちである。

山本医師は、昭和四九年一〇月に本症の眼科管理について、定期的眼底検査の実施を必須としながら、具体的には、初回検査について、在胎週を延長して四〇週を超えるまでに大部分が発症するので、少なくとも生後一か月までには行っておく必要があるとし、出生直後にも本症の早期変化を認めることがあり、本症発症後は極めて早く症状の増悪を来し、治療時期を逸することがあるので、できるだけ早く検査するのが安全で、必要なら保育器の中で検査することもできるとしているにすぎない。定期的眼底検査の間隔については、昭和五八年の時点においても、ひどい症例になると週に二、三回診る場合もあるし、軽い症例になると二、三週間あけて診る場合もあるとし、本症発症例でも機械的に一週間に一回は検査するというようなことをしていない。

兵庫県立こども病院が、昭和四五年五月から昭和五〇年一二月までに同病院に入院した一五〇〇グラム以下の極小未熟児について、眼科管理をした結果によっても、光凝固法による治療の適期を逃した症例もあり、また本症による重症視力障害が多いために光凝固法以外の新しい治療法の開発が望まれるともしている。しかも、兵庫県立こども病院は、遅くとも、昭和四九年一一月一二日には、眼底検査受入能力が限界にきており、予約により受診することを求めるようになっていた。したがって、適期に兵庫県立こども病院に極小未熟児を転医させたとしても、光凝固法により視力障害を防ぎ得た条件があったとはいえない。

山本医師及び田淵医師は、昭和四五年七月から未熟児の眼底検査の経験を積み、約一年後には本症の進行度の判定はできるようになったが、昭和四八年当時においても、どのステージにあるのかの判定は困難であり、手探りで光凝固法の経験を重ねていった。山本医師は、昭和四九年一〇月に本症の眼科的管理とその臨床経過についての報告を行い、そのなかで、本症の臨床的分類を活動期Ⅰ期から活動期Ⅴ期までに区分した独自の分類をし、進行についても緩徐に進行するものと急激に進行するものとに分けているが必ずしもその明確な区別をせず、活動期Ⅲ期初期なら治癒の可能性が高いが光凝固の追加を必要とする例もあるとし、より早く活動期Ⅱ期から活動期Ⅲ期に移る時点での光凝固を勧めている。また、田淵医師は、厚生省研究班報告の出る少し前に独自の病理学的分類をしていた。山本医師の右診断治療基準は、厚生省研究班報告の内容とは大きく異なり、田淵医師の分類も独自のものであり、これら兵庫県下の最高の専門医であっても、厚生省研究班報告の内容を知らず、独自の臨床実験をしていたことを示すものといえる。

(エ) 岡山県下での未熟児の眼科管理は、昭和五二年当時においては、岡山大学、国立岡山病院小児科及び倉敷中央病院が主なもので、そのうちの国立岡山病院小児科が岡山県下での未熟児医療施設であった。国立岡山病院小児科は、いち早く経皮的血中酸素濃度管理を導入した傑出した未熟児センターであり、本症の発症が少ないと言われていたが、その成績に疑問を呈する者もあり、同未熟児センターの名のみで一律に医療水準を要求できるものではない。

岡山県下での未熟児センターを有していた病院においても、本症に取り組める眼科の専門医がいないところもあり、昭和五〇年ころの眼底検査に使用していた医療器具は、倒像鏡ではなくそれより前の時代の直像鏡であった。

イ 姫路日赤における眼底管理の実情と要求される医療水準

(ア) 姫路日赤は、昭和四一年に兵庫県西部において病的新生児を収容し治療することを目的として、新生児センターを設置し、発足当初は主に脳性小児麻痺の発生防止に重点を置き、昭和五三年に、新生児集中医療施設NICUを含めた新しい新生児医療センターを発足させて、本症、脳性麻痺等の治療に重点を移行させていった。

姫路日赤における眼科医は、中山医師一人であり、本件当時も眼科医、看護婦、事務員各一名という最低限度の人員で多数の眼科診療をこなし、多忙であった。

中山医師は、昭和二五年に医師の免許を取得し、昭和二七年から姫路日赤に就職し、途中約半年間の学術研究を除き、昭和五〇年九月二五日に死亡退職するまで、姫路日赤に勤務していた。

姫路日赤新生児センターの眼科管理は、昭和四八年一〇月から、松永医師と中山医師との協議に基づき開始されたが、松永医師は、兵庫県立こども病院の山本医師に本症の発症が疑われる症例の診察を引き受けてもらう約束を事前に取り付けていた。右協議により、眼底検査実施基準は、当初、出生時体重一五〇〇グラム以下、在胎三一週未満、呼吸障害、高濃度酸素治療をした未熟児を中心に、在胎週を延長して三二ないし三六週ころを目標に小児科医が眼底検査に耐えられると判断した未熟児について眼底検査を依頼し、眼科医が必要と判断すれば次回検査日を指定して検査することとしていた。眼底検査日は、主として火曜日の午後とし週一回と固定してはいなかった。さらに、眼底検査実施手順は、中山医師が新生児センターの依頼により、同センターに看護婦と共に検査器具を持って赴き、対象未熟児の眼底検査を行った。中山医師は、週に一回ではなく何回か検査したこともあるし、一回に三、四人検査したこともあり、検査中に未熟児の蘇生を要する場合もあったし、保育器に入ったまま検査を行うこともあった。中山医師は、検査所見を眼科のカルテに記載したほか、昭和四八年一一月から新生児センターの用意した未熟児眼科管理記録にも記載し、次回検査が必要な場合には、次回検査日を指定していた。

中山医師は、本件当時までの一年余りの間に少ない月には七、八件、多い月には一八、九件の眼科管理を行い、本症の発症を疑って兵庫県立こども病院に転医させたのが五、六例あったが、いずれも即日治療の必要なしとして返されていた。

(イ) 中山医師は、未熟児の眼底検査については、余り経験がなく医学文献を頼りに検査を行っていた。中山医師が眼底検査の実習を受けようとすれば兵庫県立こども病院においてであるが、同病院には実習を行うだけの余裕がなく、中山医師も多忙な毎日の診察に忙殺され、本症の実習を受けることを要求するのは非現実的である。本症の専門とはいえない眼科医としては、文献を通して不完全な知識ながらも経験と試行錯誤により未熟児の眼底管理に取り組むしかなかった。

したがって、中山医師に要求される最小限度の能力は、光凝固法実施のための本症の進行程度の判定ではなく、兵庫県立こども病院への転送のための本症発症の疑いを把握することである。

(ウ) 中山医師は、昭和四九年一二月二七日に控訴人貴幸の眼底検査をし異常なしと判断したが、これは、控訴人貴幸の眼底を未熟眼底ではなく成熟眼底と判断していたといえるものである。

(エ) 大部分の未熟児は、ほとんど正常に発達し、眼底の中心部がきれいで問題なければ周辺部の観察を見逃してもほとんど問題はなく、一回の眼底検査で失明しないとの判断もできた。また、昭和四九年一〇月ころにおいても、一般には一回の眼底検査で足りるとする眼科医が多かったのが実情である。したがって、当時の医療水準としては、眼底検査の時期を問題とすべきではなく、眼底検査の内容や質を問題とすべきである。

控訴人貴幸が本症に罹患していたとしても、中山医師は、本症の瘢痕期病変を経験したこともなく、初めて活動期病変に遭遇したといえるもので、中山医師の先に述べた本症についての経験からみて的確に診断ができたとは考えられないし、まして活動期病変が著しく進行する前の適期に発見できたとも考えられないのであり、期待される医療水準に反すると非難できない。

中山医師は、眼底検査の際、あらかじめ散瞳してもらい、看護婦の協力の下に、未熟児用開瞼器を用い、眼底の周辺部を観察するための倒像鏡のトクノスコープを用いて検査していたが、当時としては地域的センター施設としても十分な態勢であった。しかし、そのような器具を用いても、未熟児の眼は、小さくて散瞳しにくい、開瞼機を用いて強制的に瞼を開かねばならない、覗いても未熟性が強くヘイジメディアや浮腫がある場合も見にくい、眼球もよく動き眼底所見を取るのも技術的に難しいというもので、未熟児の眼底の周辺部の観察には困難が伴った。このような困難を伴う眼底検査において、眼底の周辺部を十分観察できなかったとしても、中山医師に法的責任を負わせられるものではない。

(オ) 控訴人貴幸の網膜剥離は、中山医師が最初の眼底所見で成熟眼底と判断したといえることからすると、本症が原因ではなく、出血により本症と同じような瘢痕期病変と似たような変化を来し、そのために、先に述べたように、山本医師により両眼とも瘢痕期Ⅲ度と診断されるに至ったものである可能性を否定できない。

3  控訴人らの損害についての反論

治療の機会の喪失そのものは、債務不履行の内容を患者の立場から言い換えたものにすぎず、失明の結果とは無関係に、未確立の治療法を受ける機会を喪失したことに対する精神的苦痛を独立の法益として捉えることは、不法行為ないし債務不履行における因果関係ないし損害の概念から逸脱した解釈というべきである。

第三  証拠

原審及び当審(差戻し前の控訴審を含む。)における各書証目録及び証人等目録記載のとおりであるからこれを引用する。

理由

一  当事者

控訴人らの請求原因1の事実は、当事者聞に争いがない。

二  控訴人貴幸の視力障害の発生

控訴人らの請求原因2(一)(二)の事実は当事者間に争いがなく、同(三)の事実は証拠(甲F七)及び弁論の全趣旨によりこれを認めることができるほか、証拠(甲F七)及び弁論の全趣旨を総合すれば、控訴人貴幸の両眼は、平成七年一〇月一六日現在、共に明らかな牽引乳頭及び黄斑部から耳側にかけて扇状網膜の萎縮瘢痕があり、本症(瘢痕期)と診断されていることを認めることができる。

三  姫路日赤における診療体制と控訴人貴幸の診療経過

松永医師が控訴人貴幸の担当医師であったこと、控訴人貴幸が四〇日以上酸素投与を受けたこと、中山医師が昭和四九年一二月二七日に控訴人貴幸の眼底検査をしたこと、控訴人貴幸が昭和五〇年二月二一日に退院したこと、中山医師が同年三月二八日及び同年四月九日に控訴人貴幸を診察し、兵庫県立こども病院を紹介するよう連絡したこと、控訴人貴幸は兵庫県立こども病院において瘢痕期Ⅲ度と診断されたことは、当事者間に争いがない。

右争いのない事実のほか、証拠(甲F一、六、七、戊F一ないし三、八、原審証人松永剛典、原審における控訴人幸子の供述)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  姫路日赤の診療体制

松永医師は、昭和四八年一〇月ころから、姫路日赤において、中心となって本症の発見と治療を意識して小児科と眼科との連携体制をつくり、未熟児に対する眼底検査を始めた。右連携内容は、小児科医が未熟児の全身状態から眼科の検診に耐えられると判断した時期に同病院眼科の中山医師に依頼し、中山医師が次回の検診時期を指示すること、本症の発症が疑われる場合には、兵庫県立こども病院に転医させることとするものであった。姫路日赤は、昭和四九年までには、他の医療機関で出生した新生児を引き受けてその診察をする「新生児センター」を小児科に開設していた。昭和四九年一二月までの姫路日赤における未熟児の眼底検査の回数は、一か月当たり七例から多い月で一九例ほどであり、眼底検査の結果、姫路日赤は、年間四ないし五例の未熟児を兵庫県立こども病院に転医しその判断を仰いでいたが、特別な治療をする必要がないと判断された症例ばかりであった。

なお、松永医師は、本症が酸素と関連のあること、本症の治療法としての光凝固法のあることを知っていたが、本症の臨床経過等の認識はなかった。また、中山医師は、未熟児の眼底検査及び本症の診断について豊富な経験をもっていたものではなく、そのための特別の修練も受けてはいなかった。

2  控訴人貴幸の診療経過

(一)  控訴人貴幸は、昭和四九年一二月一一日午後二時八分、姫路市内の聖マリア病院において帝王切開により、在胎三一週、体重一五〇八グラムの未熟児として出生し、その際のアプガールスコアは、外界適応性が良好であることを示す八点であった。

控訴人貴幸は、同日午後四時一〇分、姫路日赤新生児センターに転医し、同センターの小児科医である松永医師ほか一名が控訴人貴幸の担当医となった。

(二)  控訴人貴幸の入院時所見は、全身運動活発、異常運動及び痙攣なく、胸廓、心臓、肺が正常、体重一四九〇グラム、体温34.0度、脈拍数一分間一四四で整調、呼吸数一分間四八で規則的、全身色は比較的良好であるが、全身ややチアノーゼ様で、冷感があり、四肢末端及び口周囲にチアノーゼを認め、また四肢には全身未熟の兆しである浮腫を認めた。

(三)  松永医師は、当時、生まれて間もなく全身チアノーゼや呼吸障害がある場合、間欠的に呼吸停止、チアノーゼが起きる場合、頭蓋内出血が疑われる場合には、濃度を考えながら四〇パーセントを超えないよう酸素を投与し、投与を中止するときは徐々に減量するという一般的方針を持っていた。

そこで、松永医師は、控訴人貴幸を保育器に収容し、温度三三度、湿度七〇パーセントとすると共に、酸素濃度が三〇パーセント以下となるようにして酸素の投与を開始した。松永医師は、右の方針にしたがい、まず保育器内の酸素濃度を二九パーセントとし、以下の主な症状に伴い酸素濃度を調節するなどした。

昭和四九年一二月一二日 酸素濃度二八ないし三六パーセント

チアノーゼ発作、異常運動あり

同年一二月一三日 酸素濃度三〇ないし三七パーセント

全身チアノーゼ、口周、四肢末端にチアノーゼ、異常運動

同年一二月一四日 酸素濃度二八ないし三〇パーセント

四肢チアノーゼ

同年一二月一五日 酸素濃度三四ないし三六パーセント

陥没呼吸、四肢の異常運動、左半身ハーレキン変色

同年一二月一六日から同月一八日まで

酸素濃度おおむね二八パーセント

同年一二月一九日 酸素濃度三四パーセント

口周、四肢末端にチアノーゼ

同年一二月二〇日 酸素濃度二五ないし三六パーセント

口周、四肢末端にチアノーゼ、ただし全身状態活発となる

同年一二月二一日 酸素濃度二四ないし三四パーセント

口周、四肢末端にチアノーゼ、ただし浮腫の低下

同年一二月二二日から

昭和五〇年一月一六日まで 酸素濃度おおむね二三ないし二八パーセント

顕著なチアノーゼは生じないが、全身色は優れない状態

昭和五〇年一月一六日 酸素投与中止

控訴人貴幸の体重が二〇〇〇グラムを超えたこと、体温が三六度を超え、呼吸及び脈拍が安定してきたこと、チアノーゼも呼吸停止もしばらくみられなくなっていたことによる。

控訴人貴幸を保育器から出してコットに移したところ、呼吸停止及びチアノーゼの症状を呈したので、再び保育器に収容

同年一月一六日から

同年一月二三日まで 酸素濃度二四パーセント前後

全身色はおおむね優れない状態

同年一月二三日に酸素投与を中止すると同時に保育器からも出した。

同年一月二七日 口周チアノーゼ、呼吸停止

酸素ボックスによる酸素吸入

同年一月二七日から

同年二月一二日まで 全身色は優れないものの、チアノーゼ発作はおおむね治まる。

同年二月一三日 チアノーゼ発作と無呼吸状態となるが吸引と心臓マッサージで回復し、酸素ボックスを使用

同年二月二一日 控訴人貴幸退院

(四)  控訴人貴幸の呼吸数は、昭和四九年一二月二九日まで毎分四〇から七〇程度で安定せず、以後は、保育器から一回目に出したとき、その後の呼吸停止を二回起こしたあとなどに毎分六〇前後まで多くなったが、それ以外は、大体毎分四〇から五〇程度で比較的安定していた。

控訴人貴幸の体温は、昭和四九年一二月二七日まで三四度から三六度の間を上下し、同日から三六度に達し、その後昭和五〇年一月一三日までほぼ35.5度前後で推移し、以後は三六度よりやや低い程度、同年二月三日から同月二〇日まで三六度前後を維持した。松永医師は、当時控訴人貴幸の皮膚温を三六度にするため環境温度をできるだけ高くしたいと考え、前記保育器の限度一杯の三三度を保ち、かつ、輻射熱を奪われないようアクリル樹脂製のフードをかける措置をとった。

控訴人貴幸の体重は、いわゆるホルトの体重曲線と比べやや回復が遅れ気味であるが、これとほぼ一致した推移を示し、生後一五日で大体出生体重を回復している。

(五)  姫路日赤眼科の中山医師は、昭和四九年一二月二七日に控訴人貴幸の眼底検査を行ったが、格別の変化はなく、次回検診を必要がないとした。そのため、控訴人貴幸は、昭和五〇年二月二一日の退院時まで眼底検査を受けなかった。

控訴人貴幸は、退院後も、姫路日赤で外来受診していた。控訴人幸子は、控訴人貴幸が光を追わないことに不安を感じて、同年三月二八日の小児科検診の際、眼科の中山医師に控訴人貴幸の眼を診てもらった。中山医師は、眼底にくもりがある、瞳の大きさが違う、定期的検査が必要、本症ほどひどくない、二週間後にもう一度診る、と控訴人幸子に説明し、診療録(戊F三)には、右瞳孔は正円、乳頭ほぼ正常、眼底網膜側頭部蒼白と記載した。

控訴人貴幸は、同年四月九日、再度中山医師の検診を受けた。中山医師は、以前と変わりない、くもりがどこからきているのか、瞳の大きさが違うのはなぜか原因が分からない、兵庫県立こども病院を紹介する、本症ではない、と控訴人幸子に説明し、松永医師に対しては、右瞳孔が円形でない、眼底蒼白として兵庫県立こども病院への紹介依頼をした(戊F二)。

松永医師は、控訴人貴幸の場合、酸素濃度を四〇パーセント以下に押さえているので、本症に罹患していないはずであると控訴人幸子に説明した。

控訴人貴幸は、同年四月一六日、兵庫県立こども病院で山本医師の検診を受けた。山本医師は、控訴人貴幸が本症に罹患し、手術の段階をすぎていると控訴人幸子に説明した。また、山本医師は、松永医師に対して、控訴人貴幸の両眼が本症瘢痕期Ⅲ度で、遠視、両眼とも牽引乳頭が強く、黄斑部を覆っているので視力障害が強いと考えられる、右眼に癒着があるのでこれ以上強くならないように眼科で経過観察をして欲しい、本症活動期病変が三週目ころから始まり一か月前後によく散瞳するので周辺部の検査が必要である旨助言する内容の返事(戊F二)を送付した。

四  控訴人らと被控訴人の診療契約の締結

控訴人らの請求原因4の事実は当事者間に争いがない。

五  控訴人らと被控訴人間の診療契約における担当医師の注意義務の内容としての本症の治療法

証拠(〈書証番号略〉、原審証人小川次郎、同大島健司、差戻し後の当審証人山本節、同田淵昭雄)及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1  本症の意義

本症は、発達途上の未熟な網膜に起こる非炎症性の血管病変で、網膜血管の増殖性変化をその本態とするものであり、最悪の場合には、高度の視力障害或いは失明を引き起こすが、自然に治癒する例が多い。

2  本症の発生要因とその機序

本症の発生要因は、現在でも十分に解明されているとはいえないが、第一には未熟児の網膜血管の未熟性があげられ、第二には、以下に述べるように、動脈血管酸素分圧の絶対的、比較的上昇があげられるほか、輸血、無呼吸、高炭酸血症、低炭酸血症、動脈管開存等があげられている。

酸素投与との関連での本症の発生機序は、次のようなものと考えられている。すなわち、胎児の網膜血管は、胎生三か月ころまでは無血管の状態にあり、胎生四か月ころから硝子体血管から網膜内に血管形成が始まり、胎生八か月ころには網膜鼻側の血管はその周辺まで発達しているが、この段階でも耳側では鋸歯状態にまで達していない。したがって、在胎週数の短い未熟児は、網膜前方が無血管状態にある。この未熟な網膜血管は、動脈血酸素分圧の変動に極めて敏感で、その上昇により容易に強い収縮ないし閉塞を起こすことになる。これを起こした動脈の流域は血流が減少ないし停止して低酸素状態となり、代謝障害を起こし、これを克服する生体反応として網膜静脈の怒張及び血管新生が出現することになる。この新生血管は透過性が強く、血しょう成分の漏出、滲出を起こし、また網膜内だけにとどまらず硝子体内へも増殖し、ついには瘢痕収縮を生じて網膜に破壊的変化を起こすに至る。

3  本症の臨床経過分類

(一)  わが国では、従来、オーエンスが昭和三〇年までに確立した分類法に準拠して研究や診断が行われてきた。その分類は、活動期(さらにⅠ期ないしⅤ期に分類)、寛解期及び瘢痕期(さらにⅠ度ないしⅤ度に分類)に分けるものである。各時期における病変等の特徴は、以下のとおりである。

活動期

Ⅰ期 網膜血管の迂曲怒張、周辺での網膜血管の新生など。

Ⅱ期 周辺網膜に滲出性白濁、硝子体中への新生血管を伴う組織増殖など。

Ⅲ期 周辺部での局部的な網膜剥離など。

Ⅳ期 増殖性病変が全網膜の半分以上に及ぶ。

Ⅴ期 全網膜の剥離など。

寛解期(消退期)

以上のどの時期からも病変が停止、消失することがある。

瘢痕期(後に残った病変の程度による分類)

Ⅰ度 網膜周辺部に白濁組織の小塊を残す程度

Ⅱ度 乳頭変形

Ⅲ度 網膜の皺嬖形成

Ⅳ度 不完全水晶体後部組織塊

Ⅴ度 完全水晶体後部組織塊

(二)  本症が社会的な関心を呼ぶようになったことから、わが国の主だった研究者によって組織された厚生省研究班が、昭和五〇年三月に発表した本症の診断の報告内容は、以下のとおりである。

(1) 活動期

ア Ⅰ型(タイプⅠ)

主として耳側周辺に増殖性変化をおこし、血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるもので、自然治癒傾向の強いものである。

1期(ステージ1)

血管新生期  周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないか、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

2期(ステージ2)

境界線形成期 周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒張を認める。

3期(ステージ3)

硝子体内滲出と増殖期 硝子体内へ滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも、血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

4期(ステージ4)

網膜剥離期 明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から、全周剥離まで範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

イ Ⅱ型(タイプⅡ)

主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジのためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期からみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型のものをいう。

ウ 混合型

右の分類のほか、極めて少数であるがⅠ型、Ⅱ型の中間に位置する型がある。

(2) 瘢痕期

1度 眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。

2度 牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は、視力は良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は、種々の程度の視力障害を示すが、日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。

3度 網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒着し、これに血管がとりこまれ、襞を形成し周辺に向かって走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は0.1以下で弱視又は失明による教育の対象となる。

4度 水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高度であり、失明による教育の対象となる。

(三)  前項の臨床経過分類は、昭和五七年に一部改定され、後の国際分類との対応をも含めた関係は、おおむね以下のとおりである。

(厚生省の分類)  (国際分類)

Ⅰ型

1期(ステージ1)網膜内血管新生

2期(ステージ2)境界線形成

―――――― ステージ1境界線形成

3期(ステージ3)硝子体内滲出・増殖期

初期――――――ステージ2隆起

中期

後期〕――ステージ3網膜外血管

線維束を伴った隆起

4期(ステージ4)部分的網膜剥離――ステージ4亜全網膜剥離

5期(ステージ5)網膜全剥離

―――――― ステージ5網膜全剥離Ⅱ型 ―――― プラス・ディジーズ

4  本症の予防と治療についての歴史的展開

(一)  諸外国(特にアメリカ)の場合

(1) 本症は、アメリカのテリーが、昭和一七年(一九四二年)、水晶体後部に線維組織形成により失明した極小未熟児の最初の症例を先天性異常によるものと考えて報告し、水晶体後部線維増殖症と命名して以来、多数の学者らにより研究実験が行われるようになった。

(2) 本症の原因について、まず、オーエンスが、昭和二四年(一九四九年)に本症を後天的疾患であるとし、先にみたような分類をした。次に、キャンベルは、昭和二六年(一九五一年)に本症の原因を酸素投与にあると推論し、昭和二七年(一九五二年)から昭和二八年(一九五三年)にかけてのプラットやキンゼイの比較対照実験(コントロールスタディ)、昭和二八年(一九五三年)のアシュトンの動物実験などにより、酸素の投与が本症発生の重要な因子であることが明らかにされた。アメリカ小児学会胎児新生委員会は、昭和二九年(一九五四年)に未熟児に対する酸素投与を慎重にする趣旨の勧告を行っている。さらに、同委員会は、昭和三一年(一九五六年)に広汎な未熟児調査の結果に基づき、酸素をできるだけ低濃度で、最低必要量を最低必要時間投与するに止めるべき旨の勧告をした。その結果、アメリカにおいては、酸素投与量の制限と未熟児眼の厳重な管理によって本症の発生は激減した。

(3) ところが、アベりー、オッペンハイマーらは、昭和三四年(一九五九年)、酸素投与を制限して以来未熟児の死亡率が上昇していることを明らかにし、マクドナルドは、昭和三八年(一九六三年)、酸素投与の制限された未熟児に神経学的異常が多いとの報告を行った。そのため、酸素濃度の制限に対する反省がなされ、低出生体重児の酸素療法に重大な変化がみられるようになり、昭和四二年(一九六七年)ころには、呼吸窮迫症候群を示す未熟児に対してはむしろ積極的に高濃度酸素療法を行うべきだとされるに至った。

ガードナーは、昭和三七年(一九六二年)、チアノーゼが出現する酸素濃度にその酸素濃度四分の一の濃度を加えた酸素濃度が適切であるとし、スミスは、昭和三九年(一九六四年)に酸素濃度は動脈血酸素分圧によるべきであるとし、プラッツも、昭和四二年(一九六七年)に高濃度の酸素濃度の危険性を指摘し、同様に、動脈血酸素分圧によるべきであるとした。

(4) アメリカ小児学会胎児新生委員会は、昭和三九年(一九六四年)には、酸素の過剰使用が本症の原因のうちの主要なものであるとして、酸素は特別な診療指示に基づいてのみ処方されるべきで、酸素濃度も四〇パーセントを超えるべきではないなどとする勧告を行い、昭和四六年(一九七一年)には、正常な動脈血酸素分圧(六〇mmHgないし一〇〇mmHg)より高い酸素分圧と本症との間に因果関係があるとして、付加的な酸素を必要とする場合には、動脈血酸素分圧を一〇〇mmHg以上とすべきではなく、六〇mmHgないし八〇mmHgの間に維持すべきであるなどの勧告を行っている。

(二)  わが国の場合

(1) わが国においては、欧米諸国と比べて保育設備が貧弱で酸素を使用することも少なかったため、本症の発生は少なかった。

植村医師は、昭和三九年、眼科医の立場から、本症が過去の疾患でなく、未熟児に対する酸素療法の普及に伴い増加している、本症の発生が酸素と関連を有し、酸素濃度を四〇パーセント以下にしても発生しうるとして、昭和四七年ころには、その予防、早期発見及び早期治療の必要性を指摘し、特に眼科、小児科及び産科の協力のもと、本症発生の頻度の多い生後三週間までとその後半年に一回くらいの眼底検査をするのが望ましい旨、強調した。

昭和四七年当時の検眼鏡による眼底検査の目的は、未熟児眼底が一か月以上にわたりしばしば中間透明体の朦朧とした状態(ヘイジメディア)となり、網膜血管径と動脈血酸素分圧との間に相関関係がないとされたことなどから、本症の予防法として光凝固法施行の適期を正確に把握するためであるとされた。

(2) 本症は、昭和四三年ころ当時、高濃度酸素の投与が原因とされるほか、酸素療法の急激な中断も重要な原因と考えられ、また、酸素療法と無関係に本症が出現する症例も報告された。

治療法としては、酸素の供給を適切に管理すること以外に、副腎皮質ホルモン等の薬剤の使用も効果があるとされたが、その後この薬物療法の有効性は否定され、本症については有効な治療法を見出すことは困難とされた。

(3) 昭和四三年ころの産科、小児科の領域では、未熟児の肺機能の未発達に起因して酸素の摂取不良から生ずる無酸素性脳障害や脳出血を防ぐため、出生後暫くは常例的に酸素を供給すべきことが有力に唱えられ、その際、本症の予防のため、酸素濃度は四〇パーセント程度にとどめることとされ、四〇パーセント以上の酸素の投与は過剰であるが、三〇パーセント以下では本症の発症の危険性はなく、右投与を停止する際には、数日間にわたって徐々に減量することが、研究者や一般臨床医の間で一応の治療の指針とされていた。

しかし、昭和四四年から同四五年にかけて、酸素濃度四〇パーセントというのは決して安全圏ではないとする警告も見受けられるようになった。

(4) 本症は、昭和四五年ころから、環境酸素濃度よりも、未熟児の動脈血酸素分圧と相関することが指摘され、本症の予防のためには保育器内の酸素濃度を指標として酸素管理をしても意味がなく、むしろ未熟児の動脈血酸素分圧を測定し、これと関連させて酸素を管理すべきであるとの意見が出され、一部の先駆的医療機関で未熟児から採血してその値を測定し始めたが、この方法は未熟児に対する侵襲が極めて大きく、しかも検査回数に限度があったため、昭和四〇年代にはその目的を十分に果たすことができなかった。

右意見の提唱者らは、昭和四六年には、未熟児に対する酸素投与につき次のような見解を発表した。①未熟児に対してルーチンに酸素投与することは避けるべきで、呼吸障害やチアノーゼがある場合にのみ酸素を与え、しかも必要最低限の量とすべきである。②未熟児に酸素を投与するときには、できれば動脈血を採取し、動脈血酸素分圧を測定しながら酸素濃度を決定すべきであろう。③動脈血の動脈血酸素分圧を測定しながら酸素の投与量を加減することは実際には難しいので、臨床的には全身的なチアノーゼを目安にして酸素の投与量を決めることが行われている。ワーレー・ガードナーは、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、それから徐々に酸素濃度を下げ、チアノーゼが軽くあらわれるときの酸素濃度を調べ、その濃度の四分の一だけ高い濃度に維持する方法を勧めている。④酸素療養中は、保育器の中の酸素濃度を頻回に測定し、記録しておく。

その後、昭和五〇年代になって経皮的に動脈血酸素分圧を測定することが可能になったが、その結果呼吸障害を有する未熟児の動脈血酸素分圧の変動は非常に大きく、間欠的な測定では真の動脈血酸素分圧を反映していないことが明らかにされた。

なお、脳障害と本症の双方を防ぐための動脈血酸素分圧の安全域は、現在に至るもなお明らかにされていない。

(5) このように、昭和四〇年代後半までに酸素投与に関して一般的指針となる統一した見解は存在しなかったが、酸素濃度を四〇パーセント以下に止め、投与期間が極端に長期にならないように注意しておけば、本症の発症は予防できるとの見解が一般的であった。

日本小児科学会新生児委員会は、このような状況下で、昭和五二年八月三一日、次のような『未熟児に対する酸素療法の指針』を答申した。①未熟児が低酸素血症の状態にある場合には酸素療法は不可欠であり、本症の第一原因が網膜の未熟性にあることは周知の事実であるが、未熟児に対する高濃度酸素の長期間持続投与が本症の発生頻度を高める要因であることも指摘されている。②しかし、本症の発生を警戒する余り、酸素を必要とする未熟児に酸素投与を制限すると本症は減少するが、死亡率が高くなるばかりでなく、生存した場合でも脳性麻痺の発生頻度が高くなるから、未熟児に酸素の投与が必要な場合には適切な投与が重要であるが、投与する酸素が適切であるか否かを判断する完全な方法や基準はなく、患者の動脈血酸素分圧を測定しても、どの値までが安全であるかは正確にはわかっていない。

5  本症の治療法としての光凝固法の登場と展開

(一)  永田医師は、かつて、イールズ病という網膜の血管増殖で失明に至ることのある病気を光凝固法で治療し効果を上げたことがあったことから、本症にも応用することを考え、昭和四二年三月、わが国で初めて本症二例に対し光凝固法を施行して病勢の進行を停止させることができたことを同年秋の日本臨床眼科学会において報告し、右は昭和四三年四月雑誌「臨床眼科二二巻四号」(甲三一)に掲載され、他に本症の治療法がなかっただけに、その治療の可能性を示して注目された。

永田医師は、さらに光凝固法による治療を行い、昭和四三年一月から昭和四四年五月までの四例に対する実施例を昭和四五年五月の「臨床眼科二四巻五号別冊」(甲二七)に、以上の六例のほか新たに実施した昭和四四年の二例、昭和四五年の四例の合計一二例を昭和四五年一一月の「臨床眼科二四巻一一号」(甲二八、乙七六)にそれぞれ報告した。

永田医師は、右報告において、光凝固法が現在本症の確実な治療法であると明言し、光凝固の適期をおおむね先にみたオーエンスの分類による活動期Ⅲ期としている。

(二)  光凝固法は、以下のとおり、昭和四五年ころから、各地の先駆的研究者によって追試が行われ始め、本症の進行を阻止する効果があるとの報告が相次いだ。

大島医師は、昭和四五年一年間に本症例についての追試結果につき、光凝固法には本症の治療効果があると昭和四七年に発表している(甲二〇、乙八八)。

馬嶋医師は、昭和四二年から昭和四六年までに管理した未熟児のうち光凝固法による治癒例二六例をそのころ報告している(甲一一八)。

国立大村病院眼科の本多繁昭医師は、昭和四五年六月から約一年間に、未熟児一〇例につき冷凍又は光凝固法を施行し一例を除いて九例を治癒させたと昭和四七年一月に発表している(甲一一九、一七九)。

広島県立病院の野間昌博医師らは、昭和四六年九月二六日開催された中国四国眼科学会において、昭和四五年一月から昭和四六年八月までに県立広島病院に収容した未熟児のうち一二例に光凝固法を施行し、大部分がオーエンス瘢痕期Ⅱ度を示して治癒したと報告している(甲一四四)。

関西医科大学の上原雅美医師らは、昭和四四年及び昭和四五年生まれの未熟児に同大学未熟児センターにおいて光凝固法を施行した五例につき、光凝固を適期に施行すれば病勢進展阻止に極めて有効であり、オーエンス活動期Ⅱ期までは重症な瘢痕を残さずに自然治癒するがオーエンス活動期Ⅲ期に入れば重症な瘢痕を残す可能性が大きいとして、オーエンス活動期Ⅲ期に入れば速やかに光凝固を行うことを心がけていることなどを昭和四六年四月に発表している(甲二六、乙八六、二九五)。

植村医師は、昭和四六ないし四七年当時、本症による失明を阻止しうる治療法は、光凝固法以外にはなく、この治療法の普及が急がれているとしている(甲三二、一六〇、一七六、乙四〇)。

永田医師は、昭和四七年三月、「臨床眼科二六巻三号」において、本症発生の実態が明らかになりこれに対する治療法も理論的に完成したといえるとし、今後はこの知識の普及と光凝固の適否、治療実施時期の問題が残されていると発表している(甲一八九、乙三八)。

関西医科大学小児科の岩瀬帥子医師らは、昭和四七年六月、同大学未熟児センターにおいて、そのころ一三例に光凝固法を施行し、予後は瘢痕期Ⅰ度を残す程度のよい結果が得られたと報告している(乙四二)。

山本医師及び田淵医師らは、昭和四七年七月、昭和四五年から昭和四六年に兵庫県立こども病院に収容された未熟児の眼科的管理を発表し、未熟児一〇名に光凝固法を行いそのうち八名についてその進行を阻止しえたとし、光凝固法が現在のところ極めて有効であると報告し(甲一二〇、乙四一、三二六の1)、田淵医師は、昭和四七年九月、光凝固法の本症に対する効果が著しいことを発表している(乙三、三二六の2)。

なお、東北大学医学部の山下由起子医師は、昭和四七年、本症に対し光凝固法と同様の作用機序を持つ冷凍凝固法の施行を行った旨の発表をした(乙三九)。

植村医師は、このように光凝固法或いは冷凍凝固法の有効性が報告されるに及び、眼科医として未熟児の定期的眼底検査の必要性を痛感し、昭和四九年五月、本症の臨床的分類を試みている(乙八〇)。なお、植村医師は、昭和四八年一〇月二八日の座談会で、全国的にみて、ほとんどの都道府県が光凝固装置を有しており、特に東京及び関西地区に集中しているとしている(乙二九四)。

馬嶋医師は、昭和四九年一〇月、局所療法として光凝固法を本症に応用し成功を収めたことは画期的なことであり、自らも数十例の経験を有し、本症の治療の第一の選択として行うべきすぐれた治療法であると信じるとしている(乙八四)。

(三)  右追試の報告者らは、追試をするにしたがい、本症には自然治癒する例がかなりあり、そのため自然寛解か本症の進行かの判定の困難さに直面し、さらに、本症の臨床経過にも相違がありオーエンスの分類ではとらえきれず、臨床経過が緩徐であるもののほかに少数だが発症から網膜剥離まで急激に症状が進行するもの(激症型)のあることも明らかにした。

治療法としての光凝固法及び冷凍凝固法は、先にみたように、自然治癒率が高く、臨床経過も多様であることから、光凝固等の実施時期が早すぎると過剰治療になり、実施時期を失すると功を奏しないので、右施行の適応をめぐって論議が出され、これらの治療方法が病理組織学的にみて網膜組織に障害を与えるため、眼球の発育を阻害したり、合併症や晩発性の網膜剥離などの副作用を惹起しないかが問題とされ、光凝固法の適応、適期、凝固部位、未熟児網膜に与える影響等については、なお研究段階にあること等が指摘されたりした。

このように、光凝固法及び冷凍凝固法の本症への応用は、治療面に新しい局面を開いたが、その結果、各研究者の間で本症の病態、臨床経過のとらえ方及び治療時期等に関して区々の報告がなされる傾向にあった。そこで、厚生省は、昭和四九年に診断及び治療に関する統一的基準を定めることを主たる目的として、植村医師を主任とする本症の指導的研究者らを中心にした厚生省研究班を組織した。

厚生省研究班は、昭和五〇年三月にその成果を発表し(乙二)、昭和五〇年八月発行の雑誌「日本の眼科四六巻八号」には(甲一九〇、乙一七二)、右成果に未熟眼底のカラー写真をも掲載した。

厚生省研究班の右内容のうち本症の診断に関する点は、理由欄五の3(二)でみたとおりであり、治療基準に関しては、おおむね以下のとおりである。

Ⅰ型の場合

治療の適応  自然治癒傾向を示さない少数の重症例についてのみ選択的に施行すべきである。

治療時期  3期において初めて治療が必要となるが、なお自然治癒するものが少なくないので、治療には慎重さが要求される。同一検者による規則的な経過観察が必要である。

治療の方法  無血管帯と血管帯との境界域を重点的に凝固し後極部付近は凝固すべきでない。無血管域の広い場合は、境界域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管域に散発的に凝固を加えることもある。

Ⅱ型の場合

治療の適応  本症が異常な速度で進行するので、治療の時機を失わないように適切迅速な対策が要求される。

治療時期  突然網膜剥離が起こるので、治療の決断を早期にする必要がある。綿密な眼底検査を可及的に早期から行うのが望ましい。無血管領域が広く全周に及ぶ症例では、血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増殖する徴候が見えたら直ちに治療を行う。

治療の方法  無血管領域にも広く散発凝固を加えるべきである。

混合型の場合

Ⅱ型に準じて行うことが多い。

(四)  光凝固法は、厚生省研究班報告後も、以下のとおり、反省、適応などにつき検討が加えられた。

馬嶋医師らは、昭和五一年一月号の「臨床眼科」において、本症に対する片眼凝固例一二例の臨床経過について、一二例中二例については他眼がなお進行傾向を示したため凝固を行い、いずれも牽引乳頭を起こさずに進行が止まり、残り一〇例については非凝固眼が治癒したため凝固眼との間に差異を認めなかったとの報告をしている(乙八五)。また、馬鳴医師は、昭和五一年一一月一〇日発行の「日本眼科学会雑誌」において、活動期における光凝固の時期、方法と網膜裂孔、屈折異常、視野変化などとの関係は今後の課題としている(乙二五四)。

植村医師らは、昭和五一年一一月一〇日発行の「日本眼科学会雑誌」において、本症に対する光凝固法については、反対意見が出るなどして再検討の段階に入った感があるとし、光凝固法は、Ⅰ型の一部の進行例と混合型に適応が絞られ、有効性の判定も厳密な研究が望まれ、Ⅱ型についてはそれ以上に病態論的研究が望まれ、Ⅰ型における光凝固法の施行は厳に戒めるべきであるとしている(乙二〇九)。

群馬大学医学部眼科の清水弘一医師らは、昭和五二年発行の「日本眼科学会雑誌」において、光凝固法についての宿題報告として、乳児期に光凝固法をすることは未知の障害が起こりうるから、本症による失明を免れるための緊急避難と考えられるべきものであるとしている(乙一九一)。

他方、永田医師は、昭和五三年の光凝固法を施行した七例につき、光凝固の適期がⅠ型では3期の初期から中期であり、特に重症例では3期に治療すべきであり、混合型では早期の治療が必要であるとし、光凝固の方法についても、凝固の部位をより明確にするなど反省と今後の適応についての見解を発表している(乙二三八)。

植村医師は、昭和五五年、光凝固法の出現当時、本症を早期に発見し、早期に治療すれば、すべて治癒するかのような報告もみられたが、その後の片眼凝固例の治療結果、Ⅱ型に対する治療成績の不良などから、光凝固法の再検討の時期に入ったとし、また、わが国での光凝固法の適応例の減少もあって、治療効果の判定がなされないまま光凝固法が使用されない時代に入ったとしている(乙一七三)。

植村医師は、昭和五六年、Ⅱ型について、放置すれば網膜剥離に進むことは明らかであり、わが国では光凝固を早期に行い、可及的に網膜剥離を防ぐべきであるとの意見が多く見られるが、経験と技術を要するものであり、厚生省においてもⅡ型の研究をするためにその準備をしていると述べている(乙一九〇)。

永田医師らは、昭和五七年九月一〇日発行の「日本眼科学会雑誌」において、過去一五年間の本症の治療成績の総括を発表し、Ⅰ型及び混合型については、適期に適切な治療が行われれば、後極部網膜をほとんど正常に保つことが可能で、視力の発育もおおむね良好で、当初懸念された光凝固そのものによる機能障害を起こしていないし、Ⅱ型については症例が少ないが強力な治療によりかなりのものが有用な視力を保全することが可能であるとし、本症の自然治癒傾向を強調する余り重症例の治療を無視すれば、相当数の重症瘢痕或いは弱視を免れないとしている(乙一九六)。

国立小児病院眼科の大島崇医師らは、昭和五八年四月二八日発行の「日本眼科紀要」において、本症に対し光凝固法を施行した事例からして、光凝固法は、本症につき有用と考えられるが、限界もあるとしている(乙二五三)。

大島崇医師は、昭和六一年三月発行の「眼科」において、昭和五五年ころから昭和五九年ころまでの症例につき、施行時期をⅠ型の3期ころとして光凝固法を施行し、治療結果が非常によい症例と非常に悪い症例に分かれたとし、これは治療の効果と限界を示すものであるとしている(乙二六六)。山本医師は、同じく昭和六一年三月発行の「眼科」において、Ⅱ型の病態につき一般の本症の発生機序と同じで程度の差にすぎないとし、条件が許す限り早く光凝固法か冷凍凝固法を施行し、更に進行して牽引性網膜剥離を生じてきた場合には、硝子体手術が有効な場合もあるとしている(乙二六七)。

永田医師らは、昭和六一年八月発行の「周産期医学」において、光凝固法がⅡ型に無効な場合があるが、それは酸素を長期間投与せざるを得なかったために網膜血管の退縮を起こした症例であるとし、Ⅱ型でも全身状態が治療を許し、適切な時期に光凝固法を適用できれば、治療が不可能でないとし、また、光凝固法を施行し最長一九年を経過した症例を含む症例結果からすると、光凝固が網膜機能に悪影響を与えるかもしれないとの懸念は杞憂に終わったとしている(乙二七四)。

大島崇医師は、平成二年五月三〇日付けの鑑定書において、光凝固法が効果があるといわれているが、施行時期、施行部位、施行方法につき盤石の自信があるわけではなく、症例がすべて状態が異なるので、一定の方法で行うことができないとしている(乙二七三)。

馬嶋医師は、平成四年九月一〇日の鑑定書において、光凝固の装置につき今後レーザー光凝固の有用性が認められるであろう、光凝固の時期は多少の議論があるが活動期3期中期に至り更に進行、増悪の傾向のみられる場合に行い、光凝固の部位も網膜外線維血管性増悪組織(境界線から拡大した部分)に接した後極側と無血管帯に行うとしながら、なお検討を続ける必要があると述べている(乙二七一)。

山本医師は光凝固を適期に施行すれば有効であると、田淵医師もいまなおキセノンによる光凝固を行っていると、当審においてそれぞれ証言している。

(五)  永田医師らは、他方において、外国に対しても、光凝固法に関する右業績を英文で発表するなどしたが、光凝固法が比較対照実験(コントロールスタディ)をしていないこと、アメリカの眼科医が治療時期を無視した治療結果をもとに無効な治療法であると論文で発表したことなどからおおむね無視される状況となり、国際的にはなかなか受け入れられなかった。

永田医師は、昭和五六年(一九八一年)、本症に関する国際会議に出席し、光凝固法の治療成績等を発表し、そのころから、カナダ、イスラエルなどの外国においても、光凝固法を支持する眼科医が出始めた。同国際会議は、昭和五九年(一九八四年)、本症の国際的な診断と病期分類の基準を作成した。

アメリカでは、関係者が、本症に対する冷凍凝固法による治療につき、大規模な比較対照実験(コントロールスタディ)を行い、昭和六三年(一九八八年)に冷凍凝固法により本症による失明を半減させたと発表するに至った。なお、アメリカでは、最近、光凝固法の方が冷凍凝固法よりも合併症が少ないとして、光凝固法が行われるようになってきている(乙三三六)。

6  本症の治療法としての光凝固法の有効性、安全性

(一) 先に(理由欄五の5)みたように、先駆的医師らは、昭和四五年ころから光凝固法が本症を阻止する効果を有するかどうかの追試を重ね、昭和四九年ころまでには本症の治療法としての光凝固法の有効性と安全性を是認するものとして治療行為を行っていたといえる。右の専門的研究者らは、光凝固法の安全性のほか、治療の有効性についても、その適応、適期、凝固部位などにつき、統一的で確定した診断、治療基準を有していたとは言い難いものの、光凝固法を本症の唯一の治療法として是認し、遅くとも昭和四九年当時においては、昭和五〇年三月に発表された厚生省研究班報告の最大公約数的な内容に沿った診断、治療基準ないしは同基準と余りかけ離れていない基準に基づいて、治療行為を行っていたことを窺うことができる。そして、先に(理由欄五の3ないし5)みたように、昭和五〇年三月に発表された厚生省研究班報告の内容は、以後、本症の診断、治療の一応の基準とされるに至っている。したがって、光凝固法は、少なくとも昭和四九年当時の本症の専門的研究者の間においては、本症の治療法としての有効性と安全性を是認されていたものと推認できる。

(二)  さらに、その後の事情を考慮すれば、光凝固法は、本症に対する治療法として有効、安全なものであることがより明らかになったといえる。

すなわち、日本における未熟児の眼科管理及び治療は、右厚生省研究班報告後に、行き過ぎた光凝固法に対する反省がみられるものの、光凝固法をすべて否定した報告は見当たらず、右分類の細目や治療法に多少の変遷を経ておおむね厚生省研究班の診断、治療基準に基づき、光凝固法を用いて行われるようになり、今日に至るまでなお治療法としての有効性を認められているといえる。そして、被控訴人も認めているように、現在においては、おおむね、光凝固の時期は、Ⅰ型につき3期中期でなお進行、増悪のある場合に行い、光凝固の部位、方法は、境界線と無血管帯を中心に広範囲に行うということになっているといえる。しかも、光凝固法は、日本のみならず、現在においては、外国においても一定の評価を得るようになっている。また、その間に、光凝固の網膜機能に及ぼす影響についても追跡検討がなされ、悪影響を及ぼしたことを明らかにする報告は今のところ見当たらない。

右によれば、現在のところ、本症につき適期に適切な部位、方法により光凝固を施行すれば、治癒しうることが経験上認められる。

(三)  被控訴人は、新規の治療法である光凝固法が確立された有効な治療法となるためには、光凝固の実施時期、凝固部位、方法についての治療基準及び安全性が確立されている必要がある旨主張する。

被控訴人の右主張が光凝固法の有効性を昭和四九年当時是認されていなかったとする趣旨であれば、右は、医療機関に光凝固法による治療を義務付けることができなくなり、したがって責に帰する事由がないとの趣旨の主張ということになる。しかし、後に(理由欄六の1)述べるように、医療水準形成の前提となる新規の治療法としては、当該疾病の専門的研究者の間でその有効性と安全性が是認されたものであることを要し、それで足りるものとするのが相当である。そして、先にみたとおり、昭和四九年当時の本症の専門的研究者の間においては、光凝固法は、本症の治療法としての有効性と安全性が是認されていたものといえるのであるから、右主張は採用しない。

次に、被控訴人の右主張が、本症の治療法としての光凝固法の有効性それ自体を否定する趣旨であれば、右は、光凝固法の施行と本症による失明或いは高度の視力障害という被害の間に因果関係がないとの趣旨の主張ということになる。この点は、因果関係があるかどうかの問題であるから、本件訴訟における事実審の口頭弁論終結時までの全証拠に基づき判断することとなる。そして、一般的に訴訟法上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、事実と結果との間に高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。先にみたとおり、現在においては、光凝固法は、本症に対する治療法として有効、安全な治療法といえるから、右主張は採用しない。

六  被控訴人の診療契約の債務不履行責任

1  医療機関に要求される注意義務としての医療水準

医療に従事する者は、人の生命及び健康を管理する業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を負担しているものであり、右注意義務の基準となるものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である。

ところで、ある疾病について新規の治療法が開発され、当該疾病の専門的研究者の間でその有効性と安全性が是認され、その治療法の存在を前提に検査・診断・治療等に当たることが、診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準であるかどうかを決するについては、当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮すべきである。そして、新規の治療法に関する知見が、当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において右知見を有することを期待することが相当と認められる場合には、特段の事情が存しない限り、右知見は右医療機関にとっての医療水準であるというべきである。

2  兵庫県下における光凝固法に関する知見

(一)  昭和四五年ころから昭和五〇年ころ当時の兵庫県及びその周辺の各種医療機関における光凝固法に関する知見の普及の程度等については、以下のとおりである。

(1) 兵庫県下の主な公立病院等における未熟児の眼科管理の状況は、以下のとおりであった(甲一九三、一九四、乙二八七、三一七の1ないし4、原審証人山中昭夫、同狐塚重治)。

ア 神戸大学医学部附属病院 昭和四三年七月に光凝固装置を購入(原審証人山中昭夫)。

イ 兵庫県立こども病院 昭和四五年五月に開院し、週二回の眼底検査。昭和四七年四月に光凝固装置を購入。それまでは神戸大学で手術。

ウ 兵庫県立西宮病院 昭和四四年一二月には一五〇〇グラム以下の未熟児につき退院時に眼底検査。昭和四八年二月には眼科カルテにより退院後も検査。昭和四六年一一月に本症第一例を兵庫県立こども病院で手術。昭和五〇年八月に光凝固装置を購入。

エ 西宮市立西宮中央病院 昭和四四年一一月に光凝固装置を購入。昭和四九年八月から週二回の眼底検査。本症第一例は、昭和四九年八月二二日に兵庫県立こども病院で手術。

オ 伊丹市民病院 昭和四九年から週一回眼底検査。光凝固装置はなく、兵庫県立こども病院に依頼

カ 川西市民病院 眼科はなく、光凝固装置もない。退院時に近くの眼科医を紹介し、昭和四九年から週三回パートの眼科医による検査。

キ 芦屋市の場合 芦屋市立芦屋病院に眼科はなく、同病院で出生した未熟児の眼底検査につき、芦屋市長が昭和四九年七月八日芦屋医師会に対し、眼底検査の協力を依頼している。

ク 神戸海星病院 昭和四六年当時新生児室の一部を未熟児室に充当。産婦人科の狐塚重治医師は、昭和四六年当時、本症の病名を知っていたが光凝固法の存在を知らなかった(原審証人狐塚重治)。眼科非常勤の山中昭夫医師は、昭和四六年七月には未熟児の眼底検査を実施し、最終的には兵庫県立こども病院に転医させたが、同医師は、眼底検査が治療法とどのような関係になるのかの点につきはっきりとした理解を持っていなかった(原審証人山中昭夫)。

ケ 明石市民病院 昭和四四年一一月に未熟児センター開設。昭和四八年秋ころから未熟児の一部につき眼底検査を実施し、必要があれば兵庫県立こども病院に転医。昭和五一年ころまでに転医した未熟児のうちの一名に光凝固法を実施(甲一九四)。

コ 兵庫県立尼崎病院 昭和四六年一〇月六日に出生した未熟児に対し、眼底検査を行い、光凝固法を施行しているし、同未熟児の出生以前にも二例ほど光凝固法を施行(甲一九三)。

サ 兵庫県立淡路病院 昭和四八年四月二四日出生の未熟児に対し眼底検査を実施しており、たまたま同病院を訪れた兵庫県立こども病院の山本医師及び田淵医師の診察結果を踏まえて、兵庫県立こども病院において、光凝固法を施行(甲一九三)。

(2) 関西医科大学小児科の岩瀬帥子医師らは、昭和四五年二月に、本症に対する治療法として、光凝固法の提唱がされているとしているが、症例を経験していないのでその価値を論じることができないとしている(甲二五、乙四)。しかし、先に(理由欄五の5(二))みたように、関西医科大学未熟児センターの上原雅美医師らは、昭和四四年及び昭和四五年生まれの未熟児五例につき、光凝固法を施行し、適期に光凝固を行えば病勢進展阻止に極めて有効であるとし、右症例のうち他院から転医してきた昭和四五年生まれの未熟児が光凝固法を勧められたことを述べている(甲二六、乙八六)。

永田医師は、先に(理由欄五の5(一))みたように、奈良県天理市内の天理よろず相談所病院において、昭和四二年から昭和四五年生まれの未熟児一二例につき、光凝固法を施行し、本症の確実な治療法であるとしている。また、永田医師は、未熟児の眼底検査につき、専用のカルテを作成して毎週火曜日を検査日とし、検査直後に所見を簡単に記載し症例ごとに追跡の間隔を一週間或いは二週間と定め次回の診察日を指定して記載する方法を採用し、オーエンスの活動期から前の段階に当たる血管閉塞期には眼底検査を毎日行うことが必要であるとし、オーエンスの活動期においては眼底病変の進展がかなり速やかであるので少なくとも週一回眼底検査を行う必要があるとしている(甲二八)。

(3) 広島県立病院の野間昌博医師は、関西電力病院が昭和四六年五月一六日開催した光凝固研究会において、本症に対する光凝固法についての講演を行い、参加者らと議論を交わした。なお、右報告においては、わが国の光凝固装置の普及は、当時、既に約六〇台に達し、めざましいものがあるとしている(甲七七)。

(4) 岩瀬帥子医師らは、先に(理由欄五の5(二))みたように、昭和四七年六月、関西医科大学未熟児センターにおける光凝固法の施行結果がよかったとし、眼底検査につき、毎週一回眼科医による注意深い観察をしていると報告している(乙四二)。

山本医師、田淵医師らは、先に(理由欄五の5(二))みたように、昭和四七年七月に、一〇名の未熟児に光凝固法を施行したと発表し、未熟児の眼底検査を頻回に行うべきであり、同病院においては、未熟児を収容後できるだけ一週間以内に眼底検査を含めた検査を行い、そのときの所見に応じて次回の診察日を決定しているが、どのような症例でもはじめのうちは二週間以上の間隔をあけないようにしているとし、他方、網膜の低酸素を来すことから必要最小限度にすることも大切であるとし、本症の治療法としては、光凝固法が最も有効な治療法であると提唱している(甲一九、乙四一、三二六の1)。

山本医師は、昭和四七年七月二三日に兵庫医科大学で開催された兵庫県眼科医会学術集談会において、本症についての特別講演を行い、本症につき早期から観察し、進行する症例については光凝固法、冷凍凝固法を施行すると十分治療できるとし、未熟児を収容する病院、医院の眼科医による眼科管理がますます重要になってきたとし、早期からの定期的眼底検査と光凝固装置等を備えた病院との連携をもつことを強調している。質問者には、井街(神大)、広辻(宝塚)、千葉(三菱神戸病院)、松田(神戸中央市民)、原(近畿中央)及び山本(神戸市)などの神戸市を中心とした地区の医師の名前が見受けられ、眼底検査の質問に対し、山本医師は、未熟児室に入院中の未熟児にはすべて眼底検査を行い、入院中異常のなかったものには後に一ないし二回の眼底検査をするにとどめ、本症の発症をみたものについては三歳まで眼底検査を行っているが、本症の活動期の変化は三か月前後で落ち着くことが多いと答えている(乙四三)。

田淵医師は、昭和四七年九月一〇日に、本症の眼病理についての論文を発表し、そのなかで光凝固法が本症の有効な治療法として高く評価されているとしながら、網膜の一部に損傷を残して治癒することから根本的治療という点からはほど遠いとしている(乙三、三二六の2)。

(5) 坂上英京都大学助教授は、昭和四八年八月ころに発行された解説書である「あすへの眼科展望」において、本症に対し適期に光凝固を加えると完全に治癒しうると明言している(乙一二一)。

蒲生逸生大阪大学教授は、昭和四八年九月三〇日に発行した「小児診断治療の指針」において、未熟児に対し生後一週ごとに定期的に眼底検査を繰り返すことが望ましく、本症の発生が最も高い生後三ないし五週ころには注意深い観察が必要であるとし、本症の手術療法として光凝固法があることを紹介している(乙一二三)。

(6) 山本医師及び田淵医師は、昭和四九年七月から同年九月にかけて、兵庫県下の全分娩施設、未熟児収容施設を対象にアンケートを行ったところ、未熟児の眼底検査を実施している施設は、一〇三個所のうち四九個所あり、眼底検査を実施していない理由の主なものは、眼科医が少ないということであり、また光凝固装置を持っている施設は六個所で、いずれも都市部に偏在していた(乙三二六の6)。

山本医師は、昭和四九年一〇月に、本症に関心のある兵庫県下の眼科医等に対し本症の眼科管理とその臨床経過についての講演を行った。山本医師は、右講演において、本症の発症は生後三週目ころからが多いので、未熟児の眼底検査を少なくとも生後一か月までに行う必要があり、出生直後に本症の早期変化を認め症状の増悪を来す場合もあり、できれば早い方がよいとし、光凝固法の施行時期については、活動期Ⅱ期からⅢ期に進行する症例に行うのがよく、急激型の場合には、光凝固法の早期施行をすべきこと、未熟児の眼底検査の際の注意点などを述べている(乙三一四)。

兵庫県医師会は、昭和四九年一一月一二日に、同医師会会員に対し、本症による失明が社会的重大問題となり、未熟児眼底検査の依頼が増加している模様であるとし、兵庫県立こども病院から、本症の診断には時間と手間が非常にかかるので一方的な名刺紹介等ではなく事前に電話等で連絡し予約をするように要望がある旨伝えている(乙二八八)。

(7) 大阪市立小児保健センターの湖崎克医師は、昭和五〇年に、国立病院ですら眼科医の欠員のあるところが多く、しかも大部分の眼科医は、未熟児の眼底検査の経験が少なく、本症活動期に対する理解が不十分であり訓練が必要であるとし、本症の唯一の治療法である光凝固法を広く実施するには、体制を整える必要があることを強調している(乙四八)。

山本医師は、昭和五〇年四月、「未熟児網膜症―病因論と眼科―」としておおむね前記昭和四九年一〇月の講演と同趣旨の内容を発表している(乙七〇)。

天理よろず相談所病院眼科の鶴岡祥彦医師は、講演に基づいて、昭和五〇年、本症の症例は緩急軽重の差が激しく、画一的な判断ができないことが判明したので、本症活動期病変の実際の情報の蓄積と未経験者への伝達が重要であるとし、眼底検査方法、検査時期、眼底所見、光凝固の実施決定及び範囲に関する原則などを考察し、特に、検査時期については、生後二ないし三週目に第一回の眼底検査をし、未熟眼底の場合には、その内容に応じて一週間に一ないし二回から二週間に一回の割合の眼底検査を行うものとし、今後の課題は急速に進行する本症の診断治療であるとする論文を発表している。なお、右講演に出席した者のうちには、中内正海(阪大)、松山道郎(大阪市大)、久保省吾(堺市民病院)、山本医師、湖崎克(大阪市立小児保健センター)らの名前が掲載されている(乙一二七)。

大阪市北野病院眼科の菅謙治医師らは、昭和五〇年、光凝固施行の時期をオーエンスのⅢ期初期かⅢ期に移行すると思われるⅡ期の後期にすることに異論はないとし、光凝固法を施行した五例につき、凝固方法についての検討を行い、凝固部位は境界線に接した無血管帯を二ないし三列にわたり凝固すべきであるなどとしている(乙一六八)。

淀川基督教病院小児科の竹内徹医師は、昭和五〇年、小児科の立場から、本症の診断には熟練した眼科医が行うべきであり、少なくとも在胎三六週以前の又は体重二〇〇〇グラム以下の新生児で酸素療法を受けた全員を対象とすべきで、この診察は、新生児室を退院するとき及び三か月から六か月の間でもう一度行い、病院から退院するときに異常を認めない場合は、それ以上眼底検査をする必要はないとしている(乙三一五)。

(二)  そこで、兵庫県下における医療機関に対する光凝固法の知見の普及について検討する。

先にみたように、光凝固装置は、全国的にみて昭和四六年当時で既に約六〇台普及し、兵庫県下においては、昭和四三年に神戸大学医学部附属病院に導入され、西宮市立西宮中央病院には昭和四四年に、兵庫県立こども病院には昭和四七年にそれぞれ導入され、昭和四九年当時においては合計で六個所の施設に導入されるに至っていた。

兵庫県立こども病院のようなより専門的な病院は、昭和四五年の開院当初から未熟児に対し早期に眼底検査を行っていたが、先にみたように、その他の兵庫県下の主な公立病院等は、眼科の専門的な医師らが未熟児に対し光凝固法による治療を前提として早期で頻回な眼底検査の必要性を啓蒙したことなどから、遅くとも昭和四八年ないし昭和四九年ころには未熟児に対し早期で頻回な眼底検査を実施していたか、その必要性を認識し当該地区の医師会との間で連携を取っていたものといえる。昭和四九年当時の兵庫県下の未熟児の眼底検査の普及状況は、全分娩施設、未熟児収容施設一〇三個所のうち約半数の四九個所にのぼり、眼底検査を実施していない施設の主な理由が未熟児の眼底検査の必要性を認めないのではなく、眼科医を確保できないということであった。このような事情もあり、未熟児の眼底検査依頼は、兵庫県立こども病院においては、昭和四九年当時、その能力を超えるほど増加していた。したがって、兵庫県下においては、未熟児に対する早期で頻回な眼底検査の必要性は、昭和四九年当時にはかなり普及していたといえる。

兵庫県下の光凝固装置を有していない主な公立病院等は、遅くとも昭和四九年までには、未熟児の眼底検査を行い、その結果必要があれば、光凝固法による治療を前提として、未熟児を兵庫県立こども病院などのより専門的な病院に転医させて手術を受けさせる体制をとっていたといえる。

そうすると、光凝固法の知見は、昭和四九年当時の兵庫県下において、少なくとも主な公立病院には相当程度普及していたものといえる。

3  姫路日赤に要求される注意義務としての医療水準

(一)  姫路日赤は、兵庫県下の西播磨地区における地域の中心的病院であり(乙三〇六、弁論の全趣旨)、未熟児保育については、昭和三三年ころに養育医療機関の指定を受け、昭和四一年に兵庫県からの補助を受けて増改築をして新生児センターを発足させ、昭和四九年ころには、新生児及び未熟児に対する医師数六ないし七名、看護婦数二一ないし二六名で、直接酸素を吸入できるような保育器一〇台を有するような体制であった(戊F四ないし六、原審証人松永剛典)。

姫路日赤の本症についての診療体制は、先に(理由欄三の1)みたように、小児科と眼科が連携し、未熟児に対する眼底検査を一か月当たり七例から一九例行い、右眼底検査の結果、年間四ないし五例の未熱児を兵庫県立こども病院に転医させてその判断を仰ぐものであった。

ところで、兵庫県は、昭和四〇年代から積極的に新生児医療に取り組み、病的新生児の収用治療の本拠とするための新生児センターの設置病院として、兵庫県東部地区においては神戸医科大学附属病院(当時)及び神戸赤十字病院を、同県西部地区においては姫路日赤をそれぞれ指定し、さらに、その後も新生児医療の高度化に伴い、地域としての新生児医療の充実、向上を図るようになり、昭和六二年には兵庫県下を七ブロックに分け各ブロックにセンター病院と協力病院とを設定した。センター病院は、阪神地区が兵庫県立尼崎病院、神戸地区が神戸大学医学部附属病院、兵庫県立こども病院、東播磨地区が加古川市民病院、淡路地区が兵庫県立淡路病院などであり、協力病院は、川西市民病院、伊丹市民病院、兵庫県立西宮病院、明石市民病院、国立姫路病院などであり、西播磨地区においては、姫路日赤がセンター病院となっている(乙三〇六、三一九)。

右によれば、姫路日赤は、昭和四九年当時、光凝固装置を有していなかったが、新生児センターを有し、西播磨地区における新生児、未熟児の医療に中心的な役割を果たしていたもので、先にみた新生児、未熟児の医療に中心的な役割を果たしていた兵庫県下の主な公立病院のうち光凝固装置を有していない病院と類似の特性を備えていた医療機関ということができる。

これら光凝固装置を有していない主な公立病院は、昭和四九年当時、おおむね、本症の治療法として光凝固法の知見を有しその有効性、安全性を是認し、同治療による前提として未熟児に対し生後できるだけ早い時期に頻回に眼底検査を実施し、その結果必要があれば、より専門的な兵庫県立こども病院などに未熟児を転医する体制であったといえる。

したがって、姫路日赤には、昭和四九年当時、本症の治療法としての光凝固法の知見を有していたといえるし、少なくとも右知見を有することを期待することが相当であったといえるから、右知見は、姫路日赤にとって医療水準であったといえる。

(二) 右にみたとおり、姫路日赤には、昭和四九年当時、光凝固法の知見を有することを期待することが相当であったのであり、姫路日赤の履行補助者である中山医師は、右知見を有するものとして先に(理由欄六の2(一)(2)以下)みたように、未熟児に対する眼底検査を、事情が許す限り生後できるだけ早い時期にしかも頻回に実施し、その検査結果に基づき、時期を失せずに適切な治療を施すなり、本症の疑いがあれば兵庫県立こども病院に転医させて失明等の危険の発生を未然に防止すべき注意義務を負っていたものといえる。

先に(理由欄三の2)みたとおり、控訴人貴幸は、昭和四九年一二月一一日、姫路市内の聖マリア病院で在胎三一週、体重一五〇八グラムの未熟児として出生し、同日、姫路日赤新生児センターに転医し、保育器に収容されて酸素投与を受けていたものである。中山医師は、同月二七日に初めて控訴人貴幸の眼底検査を行い、格別の変化がなかったとして次回の検診を不要とし、昭和五〇年二月二一日の控訴人貴幸の退院まで眼底検査を実施しなかった。しかし、先にみたとおり、姫路日赤は、西播磨地区における未熟児医療の中心的役割を果たし、本症の発生を未然に防止するため眼底検査を頻回実施する必要があるとの知見を有することが期待されていたのであるから、姫路日赤の担当医師としては、わずか一回の眼底検査で以後の検診を不要とすべきではなく、頻回検査を実施すべきであるにもかかわらず、中山医師は右検査を実施しなかったということになる。そのために、控訴人貴幸は、光凝固法等の外科的手術の適期を失い、高度の視力障害を残すに至ったものである。したがって、中山医師には眼底検査義務、本症の診断治療義務、転医義務違反の過失があったというべきであり、右義務違反は姫路日赤を設営する被控訴人の診療契約の債務不履行に該当するところ、右義務違反と控訴人貴幸の視力障害との間には相当因果関係があるというべきである。

(三)  被控訴人は、中山医師が多忙な診療に忙殺されて本症の実習を受けることが非現実的であり、経験と試行錯誤により未熟児の眼底管理に取り組むしかなかったことから、転医のための本症発症の疑いを把握すれば足りる、と主張する。しかし、右にみたとおり、姫路日赤としては昭和四九年当時光凝固法の知見を有することが期待されていたのであるから、中山医師に光凝固法の知見を獲得させておくべきであって、中山医師が当時右知見を獲得できていなかったことから適切な眼底検査、本症の診断治療、転医の措置を採れなかったからといって、その義務違反を免れることができないのであって、姫路日赤を設営する被控訴人の診療契約の債務不履行を否定することにはならないというべきであり、被控訴人の右主張は理由がない。

被控訴人は、中山医師が昭和四九年一二月二七日に控訴人貴幸の眼底検査の結果、異常なしと判断しているが、これは、控訴人貴幸の眼底を成熟眼底と判断していたことによる旨主張する。しかし、先に(理由欄三の2)みたように、控訴人貴幸は、未熟児で出生し、昭和四九年一二月二七日当時も保育器に収容されて酸素の投与を受けていたものであり、その容態は安定していたものではないこと、中山医師の控訴人貴幸に対するその後の眼底検査の結果が側頭部蒼白とされており、右は、未熟眼底と疑われる事情であること(差戻し後の当審証人山本節)、山本医師が控訴人貴幸の両眼を本症瘢痕期Ⅲ度と判断していることからすると、被控訴人の右主張は採用できない。

七  控訴人らの損害

1  慰謝料

控訴人貴幸は、本症による両眼の高度視力障害により生涯にわたり社会生活及び日常生活において制約を受けるものであり、その精神的苦痛は極めて大きいものがある。しかし、本症は、生後間もない未熟児に発症するもので、その発症原因として網膜血管の未熟性を第一に挙げられているほか、光凝固法による適期の治療がなされたとしても、控訴人貴幸の両眼の視力を完全に回復していたかどうかについて不確定な要素が全くないとはいえないから、これらを慰謝料額算定の一要素として考慮するのが相当である。その他、先にみた被控訴人側の過失の程度、そのほか本件にあらわれた一切の事情を考慮して、被控訴人が控訴人貴幸に支払うべき慰謝料は一五〇〇万円をもって相当と認める。

控訴人曉及び幸子は、親として控訴人貴幸に対して抱いてきた不安は、控訴人貴幸の生命が侵害された場合に比して劣るものではなく、先にみた事情を斟酌して、被控訴人が控訴人曉及び同幸子に対し支払うべき慰謝料は各一五〇万円をもって相当と認める。

2  弁護士費用

本件事案の概要、訴訟の経過、認容額、その他諸般の事情を考慮すると、被控訴人が控訴人らに賠償すべき弁護士費用は、控訴人貴幸につき二〇〇万円、控訴人曉及び同幸子につき各二〇万円をもって相当と認める。

八  結論

以上によれば、控訴人らの請求は、診療契約の債務不履行による損害賠償として、控訴人貴幸については、一七〇〇万円及びうち一五〇〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五一年七月二四日から、うち二〇〇万円に対する原判決言渡しの日の翌日である昭和六三年七月一五日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、控訴人曉及び同幸子については、それぞれ一七〇万円及びうち一五〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五一年七月二四日から、うち二〇万円に対する原判決言渡しの日の翌日である昭和六三年七月一五日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度でそれぞれ理由があるから認容し、その余を理由がないとして棄却すべきところ、控訴人らの請求をいずれも棄却した原判決中控訴人らに関する部分は失当であるから、原判決中同部分を取り消したうえ控訴人らの請求を右の限度で認容することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条、九三条、仮執行の宣言につき一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福永政彦 裁判官井土正明 裁判官横山光雄は、海外出張中につき署名捺印することができない。裁判長裁判官福永政彦)

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